『こういうやさしさが、好き』
『やっぱり、こっちの世界が───』

あのとき、密かに心の中に流れ込んできた言葉
ずっと掴めないでいた、その言葉の本当の意味を知ったのは、つい最近のこと





「……………」

人間界と魔界とを繋ぐ扉を守護する、江藤家の地下室
数え切れないほどの扉には、様々な道へと通ずるものがあり
そのうちのひとつに、どうやら『鏡の間』なるところを開く扉があるらしい
そこに鎮座する鏡の
ひとつは、その身を映した者の年齢を若返らせる、鏡
もうひとつは、その身を映した者の成長を促進させる、鏡
そしてもうひとつは
その身以外を鏡に映し示したかのような、こちらの世界とは裏返しの世界へと導く、鏡
そして俊は今、大きめの布を被り能力を隠したその鏡の前に佇んでいた

「鏡の国、ねえ…………」

後ろめたさというものが
全くないといったら、嘘になる
とはいえ
たとえ一瞬だとはいえ、彼女の心を奪ってしまったほどの男がいる世界
自分という存在が、そこまで変貌を遂げてしまうのであれば
彼女という存在は、果たしてその世界でどんな変貌を遂げているのか
興味を持たずしていられる方が、おかしい
それは決して
今この世界で自分の隣にいる彼女という存在に、不満があるというわけではないのだけれど───

「…………」

やっぱりバツが悪そうに、きょろきょろとあたりの様子を伺って俊は
目の前に翻る布に静かに手をかけ
中で自分を待つ、ある意味得体の知れない鏡に触れる







どこぞの漫画で見たような、時空がぐるりと捻じ曲がった
いささか具合が悪くなりそうな空間を抜けるとそこは
いつもと寸分違わず静まり返った、江藤家の地下室

「…………?」

────ここが、その世界、なのだろうか
今ひとつ確信が持てないまま、ゆっくりと一階への階段を昇ると
やはりいつもと何ら変わらず、優雅に家事をこなす彼女の母に出くわした

「あら、真壁くん、お帰りなさい。お妃様はお変わりなかった?」
「あ……。は、はあ……」

地下に潜るための言い訳は『魔界に家族の顔を見に行くため』
そう滅多に行き来をしない俊の申し出に、ほんの少し驚いたような表情を見せながら見送ってくれたのも
目の前にいる、彼女の母で
階下から現れた自分を、何の疑いも違和感もなく迎えるその姿に俊は
自分がいまどこに来ているのか、本当に『裏返しの世界』へと足を踏み入れることができているのか
そちらの方に疑念を感じさせられてしまい

「そういえば、蘭世はどこへ行っちゃったのかしらね……。出掛けるなんて言ってなかったのだけれど
まあ真壁くん、折角だし、お茶でもいかが? そのうち蘭世も帰ってくるでしょうし
よければ、待っていてあげてちょうだいな」
「あ、はい……いただきます……」

あれよあれよと客間に通されて
アイスティーがたっぷり注がれたグラスに浮かぶ水滴を眺めながら
俊は完全に、拍子抜けしてしまう

あのとき密かに聞こえてきた声が、気のせいだったとか
あるいは
歪んだ時空を抜けるときあたりに、何かしらの要因で、失敗して元の世界に戻ってきてしまったとか
いずれにしても、今、自分がいるこの世界は
いつも自分がいる世界と、何ら変わるところはなさそうだ
(その証拠とでもいうべきか、少なくとも
居間で読書をしていた彼女の父と、彼女の母との上下関係に
下克上が生じているようには窺い知れない)

ということは
何よりもまず見てみたい『彼女の裏返しの存在』とやらも
いつもの彼女と何ら変わらない風情か
あるいは
いつもの世界で会っているいつもの彼女か────の、どちらかということになる筈で

「…………」

──────帰るか……

出されたお茶をぐぐっと一気に飲み干して、ほっとひと息
質のいいソファから腰を浮かしかけた次の瞬間、客間に明るく響いた声に
俊は我が耳を疑った

「俊!」
「え!?」

多分、まんまるに目をむいてしまっているであろう表情のままそちらを見やると
ひらひらと手を振り、こちらへ向かってくる、彼女

「いらっしゃい♪ 
……ごめんなさい。あまりにお天気がいいものだから、ちょっとお散歩してて……
俊が来てくれるってわかってたら、もっと急いで帰ってきたんだけど」
「え…………江藤……?」
「え? なあに??」
「い、いやその……しゅ、『俊』って……おま……」
「え? やだ、どうしたの?? いつもそう呼んでるじゃな〜い♪」
「〜〜〜〜〜〜〜〜!!」

ぱくぱくぱく、と、開いた口を塞ぐこともできず俊は
目の前の彼女と、部屋の壁と、テーブルと、飾られた花と
至るところをまじまじと見やる

──────予想外というか予想以上というか心臓に悪いというか
この展開は、つまり、そういうことですか……!?

「んもう、今日の俊ってば、なんだかヘンよ……『江藤』だなんて」
「い、いや、その……」
「そうだ! ちょっと、お外の空気でも吸いに行かない? お散歩、けっこう気持ちよかったのよv」
「え、あ、う……っと、そう、だな……
 ら……ららら蘭っっ………〜〜〜っ!」

──────呼べるかっっ!







「………え」
「ん?」
「……あ、いや……」

──────なんか、調子狂うな
俊は手元を見やりながら、胸の内でひとすじ汗が零れ落ちるのを感じる

いつもなら、自分が繋いでいくのをおとなしく待っている筈の細い指
それが今は、家を出て間もないうち、ごくごく自然に自分の指に絡められた
耳まで真っ赤にするでもなく、にこにこと、他愛もない話を続けながら
いつもの彼女とは、到底、結びつかないその行動

──────でも、たまには、こんな彼女も悪くない

そう思ってしまう自分自身が、心の片隅に確かに存在するのもまた事実
それは決して
あちらの世界で自分の隣にいる彼女という存在に、不満があるというわけではないのだけれど───

「どうか、した?」

そう、だって
思わず無言になってしまった自分をきょろりと覗き込む目の前の彼女は
他でもない、彼女 なのだから

「…………いや……」

あちらの彼女もこちらの彼女も、自分の心を癒してくれる力は最大級で
その微笑みに、ふと、緊張めいた気構えが緩むのを感じる
それと同時にふつふつと沸き起こる、いくばかりかのささやかな欲求
旅の恥はかき捨て ではないが
いつもの自分を取り巻く世界とは全く異質のこの世界で
いつもは到底できないような、こんなことを試してみるのも一興かもしれない

「──────あ」

ゆるく絡めた指をやさしく解いて、指先に意識を目一杯集中させて精一杯さりげなさを装い
するりと滑らせ細い腰を抱く
心持ち短めなカットソーの裾から、ほんの少し腕が割り込み
その素肌にふと、腕の内側のやわらかい部分が触れる

「えへへ」

彼女は心から嬉しそうに笑って
解かれた指を、自分の腰に添えられた腕に添える

「…………どっか行くか?」
「え? うーん、そうね………
最近、ずっとお外でのデートが多かったから……俊の家でゆっくりしたいなっ」
「…………そうか」

にこにこと微笑みながら述べられる願望の、彼女らしさ・可愛らしさは変わりなくて
思わず緩む、自分の頬の筋肉を感じつつ
流石、自分の裏返しの存在ってだけあって
こっちの世界の自分は、マメに色んなところに連れていったりするんだな───などと
ある意味、重々反省すべき点であろうところを、妙に感心しながら俊は
彼女のペースを乱さない程度に、その歩調を緩やかに速める



next→