シャツのボタンに手が掛かった瞬間、ふと頭をよぎったのは
おとうさん、ごめんなさい
こんな気持ちだったのを覚えている

いつもならソフトに響く声が、体の奥から絞りだすような声に変わり
耳元で何度も名前を呼ばれた
彼の肌が触れるたびに走る甘い疼きと、体の奥深く、めりめりと押し広げられるような痛みと
体の感覚だけがひとり歩きして
“その瞬間”に自分が何を思っていたのかは覚えていない







「……あ……れ………?」

あのあと、どうやら自分は眠りに落ちてしまっていたらしい
腕を枕替わりに差し入れ、ほんの少し照れくさそうにしながら
いたわるようにずっと髪を撫でてくれていた彬水の姿は、気がついたときには既に隣にはなく
愛良は思わず起き上がり、きょろきょろと辺りを見回した
耳をすますと、今まで一度も足を踏み入れたことのないバスルームの方から流水音が聞こえ始め
開いたドアから身を乗り出した彬水の姿が目に入った

「お───……起きたか」
「う、あ、は、はい……」
「風呂、入ってくだろ?」
「え」

改めて顔を合わせてみて一気にこみ上げた余韻に浸る間もなく、予想もしなかったことを尋ねられて口籠もる

「いや、あの……だって……」
「だって、って……。男の匂い付けたまんまで家に帰るわけにいかねえだろ」
「……にお………っっ」

確かに
そんなところまでと思ってしまうほど、隅から隅まであれやこれやされたわけではあるが
匂いという言葉が妙に生々しく響いて、愛良は思わず赤面してしまう
その、心の片隅で

───なんか……慣れてる、の、かなあ………

自分が目覚めるそのときに合わせて風呂に湯を張っておく、そんな根回しのよさにちくりと胸が痛んだ
いつもなら、ふとしたときに感じる彼の手際のよさに安らぎを得ているというのに

慣れさせたのは、何なのか ───正確には、“誰なのか”
それを思うだけで、居心地のよいものでしかなかった六歳の年の差が、途端に重く圧し掛かる
贔屓目を除いてもなお整っていると言える顔立ちに、スポーツも万能、頭もいい(多分)となれば
自分と出会う前は、いや、もしかしたら今現在においても、周りは放っておかないだろう
もっと早く出会っていたなら、もっと彼と十分につりあうような女性だったなら
こんな気持ちにならなくて済んだのかな───愛良は、自分の貧相な胸を見ながらふうっとひとつため息をついた

そんなぐるぐると渦巻く心境を知ってか知らずか、当の彬水といえば暢気なもので

「……なんだ?」

いつの間にか愛良のすぐ隣にやってきていて、頭のてっぺんをぽんぽんと軽くたたきながら尋ねた

「あの、慣れてるなあ、って……。あ」

胸のうちをそっくりそのままこぼしてしまった口元を慌てて手で塞ぐが、時すでに遅し
彬水はきょとんとした顔で愛良を眺め、一瞬の間の後その意味合いに気づいて愛良の鼻をぎゅっとつまんだ

「バーカ」
「ふがっっ」
「残念ながら、今までその手の経験はございません。自他共に認めるマジメな勤労学生ですから」
「! ………そう……な、の………?」
「おれは命が惜しいだけ。おまえの親父さんに狙われたら、一発であの世行きだしな……」
「……ぶっっ」

その、心底恐れているような表情がおかしくて、思わず吹き出してしまう
つられて彬水も微笑みながら、愛良の頭を撫でた

彬水の手は、大きい。ともすれば、愛良の頭くらい余裕で掴めてしまうだろう
ほんの数秒前まで年の差を悩んでいたというのに
子ども扱いするような動作がなんとなく嬉しいと感じてしまうのだから、勝手なものだ
実際、悩んでも仕方のないことなのだから、うじうじしていても時間の無駄なのだが
気持ちを切り替えるきっかけを得るのは、本当に難しい
それをこんなにも簡単に与えてくれるこの手が、本当に不思議

「ほれっ。さっさと入る!」
「は───い」

愛良はごそごそとシーツを羽織り、バスルームへとターンする彬水の後に続いた





バスルームというものは、一種の聖域だと思う
友人の家に遊びに行く機会は多いけれど、友人の部屋へ直行、よくて居間に通されたことはあっても
バスルームに足を踏み入れたことは未だないからなのか
なんとなく、その家の者のみに許された空間のように思えて
愛良はきょろきょろと辺りを見回す
きちんとたたんで並べられたタオルや、青基調で揃えられたマットにカーテン、歯ブラシ、コップ
そのひとつひとつの配置が、人柄を示しているように見えた

「タオルは……これな。新しいやつだから心配すんなよ。スポンジ……は、切れてたな、悪い
物足りないかもしれねえけど、タオルで洗うってことで」
「あ、ありが……とう……」

そわそわ落ち着かない愛良をよそに、なにやらごそごそと棚をあさっていた彬水が二本の白いタオルを手に振り返る
ドアを開けると、ほんわかと立ち込める、湯気と入浴剤の香り
匂いうんぬんよりも、ほんの少し冷えてきた足先のために、お風呂は純粋にありがたい

──────と
そろそろお邪魔しようかと思いつつ、ドアの横でじっと立っている彬水が気になって
羽織ったシーツを脱ぐこともできず

「あの……」
「うん?」
「えと、入らせてもらおうかな、って……」
「おう。そんなカッコじゃ冷えるぞ。入れ入れ」
「じゃ、なくて……」

あっち行かないの? そう言い掛けた愛良がひっくり返りそうな言葉を口にした

「ああ、姫のおせなをお流ししますよ。折角なんで」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」

反射的にシーツの両端を握り締め、反論する

「なななななな、なにが“折角”なのお!?」
「や、こんな機会はそうそうないだろうし……」
「あ、あ、あ、ありえな──────い!!」
「現実を見つめろ。……っていうかそれ以前に、もう全部しっかり見させていただいたわけだし」
「う──そ──で──す──っ!! だってさっきは電気消してたもん!」
「甘いな……。男はみんな心眼ってものを持ってんだよ。暗さなんてなんのその」
「いやああああああっっ!! し……新庄さんのエッチ!!」
「男はみんなエロいです。ほれ、むこう向いてるからシーツ寄越せ」
「し……新庄さん……あの………本、気…………?」
「当然」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ………!!」

その眼光の鋭さからして、彬水は本当に本気らしい
そういえば、愛良だけを風呂に入れるのであれば、彬水は服を着ていてもよさそうなものなのに
申し訳程度に履きました、と言わんばかりのパンツ一丁の姿だった

逃れるにしても、ここは彬水の家、逃げ場もない
確かに一度見られているのかもしれないけれど(心眼ってのはどうかと思うが)、恥ずかしいし、でも……と
さらに延々と悩んで、結局
開けっ放しのドアからもれた湯気で曇ってしまった洗面台の鏡が、もとの姿に戻った頃
愛良はシーツをゆっくりと手渡した



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