「俊はしばらく……いえ、記憶を取り戻すまでは、こちらに住まわせようと思うのですよ」
「え?」

あの時、ただでさえ滑りやすい階段を、更に意地悪な雨が包んでしまっていた罠に捕らわれ
頭から転げ落ちてしまった彼のことを城へと運んだあとしばらくしての会話

その申し出は、当然といえば当然なのだが、それでも蘭世には引っかかるものがあり
思わず食い下がってしまう

「で、でも……真壁くん、お城が苦手だった……というか……」
「…………」

そんなことは、彼の母親でもある王后だって百も承知であるが
次の言葉を言いよどみ、寂しげに微笑む

「……何か……あったんですか……?」
「…………」

数秒間の、しかし蘭世にとってはとても長い沈黙を経た後、意を決したように、王后は蘭世を見据える

「蘭世さん……落ち着いて聞いてくださいね
俊は……“記憶喪失”と言うよりは、“記憶障害”と言った方がより正確な状態かもしれません」
「え?」

“喪失”ではなく“障害”と強調する意図がよく飲み込めず、蘭世はただ問い掛けるしかできない

「人が……変わってしまったようなのよ。残酷なようだけれど……会わないほうが蘭世さんのためだわ」
「……そんな!」

だって
だってわたしにとっては、例えどんな風になってしまおうとも、真壁くんは真壁くんでしかないというのに

「…………」

そしてそんな蘭世の想いについても当然理解しているからこそ、王后はため息をつくしかできずにいる

「……真壁くんが、赤ちゃんになってしまったとき……」
「…………」
「あの時、正直言うとわたしは絶望的な気持ちになりました
先が見えなくて、無事生きていられるかすら判らなかったし、もしあのまま無事に育ったとしても
わたしのことを覚えていてくれる保証はなかったし」
「……そうね……」
「それでもわたしはあの時、例えどんな未来だとしても、それを受け入れようと思ったんです
どんなに寂しくても辛くても、ありのままを」
「…………」
「だから……おばさま……あ、ごめんなさい。お后さまが止めてくださるのが、純粋にわたしのことを思ってのことなのだとしても、わたしは……真壁くんに会いたいです……」
「…………」

ゆっくりと
ドレスの裾を押さえながら立ち上がり、王后はその扉のほうへと向かう

「お后さま……」
「“おばさま”でいいですよ。それよりも……心の準備はいいかしら……?」
「…………」

顔をまっすぐに見つめ告げられた言葉に、蘭世は思わず息を呑む

そしてその扉の向こうには、あれからまだ1時間と経っていないというのに
会いたくて会いたくてたまらなかった最愛の人がベッドに腰掛け、
大きな窓の向こうをぼんやりと眺めていた

「俊」

王后の呼びかけに反応し、けだるそうにこちらを振り向く
蘭世の存在に気づき、ふと視線が留まる

「そちらは?」
「…………真壁くん……」

自分のことを覚えていない
誰のことをも覚えていない
そう前もって伝えられていたにも関わらず、蘭世はその名を呼んでしまう

「……マカベ?」
「あなたの姓よ。人間界での。あなたは人間界に住むことを望んでいたから……
……そしてこちらは、あなたがそれを選んだ最大の理由の、蘭世さん」
「…………」

そう言われた俊は、一瞬驚いたような顔をして
蘭世の頭のてっぺんから爪先までを射るような瞳で見据える
そしてその口元から紡ぎ出された言葉は

「……悪いな、娘。どうやら私はおまえのことを思い出せそうにないようだ」

最初は悪い冗談だと思った
いや、思いたかった

あまりに変わってしまった口調に何も返すことができず、すがるように王后を振り向くと
つい先刻「会わない方がよい」と留めたときと同じ表情で蘭世を見返すのみ
蘭世はそのときようやく「障害」と強調する意味を知った

「どうやら……魔界の王子という記憶だけが、色濃く残ってしまっているようなのです」
「…………」
「言葉遣いや、立ち居振る舞い……そのすべてが、その、なんと言うか……」
「おかしい……ですよね……」

再び通された別室で、改めて現状の説明を受けていた蘭世はようやく口を開く

「ええ……目を覚ました瞬間からあの調子なのよ。妙に威圧的というか……
服も、もともと着ていたものを目にするなり、なんだこれは!? と騒ぎ出して
取り急ぎ用意できたもののうち、ようやく納得してくれたのがあのシャツ」

そういえばあのときの俊は、出かけるときに来ていた衣服とは違い
妙にぴらぴらしたシャツを身に纏っていた
いつもの俊だったら、着ろと言われたら耳まで真っ赤になって放り投げるような代物だ

「何十世代か前の王家の者が乗り移ったのではないか、
などという話もあがったのだけれど……もう少し調べてみないことには……」
「…………」

ティーカップを心持ち斜めにしてゆっくりと回すようにふってみる
落ち着かないとき、なんだか不安なとき、真ん中の渦を見つめていると、少しずつ道が見えてくる
それはいつの頃からか、蘭世が無意識のうちにしていたおまじない
でも今日に関しては、そんなおまじないが気休めにもならないほど途方にくれてしまっている

「今日は……ひとまずこのまま帰りますね……」
「……そうね、そのほうがいいでしょうね……」
「……」
「あ……蘭世さん」

冷め始めていた紅茶を飲み干し、身支度を整えソファから立ち上がる蘭世に
王后はもう一度呼びかける

「…………あまり、気を落とさないようにね
わたしたちも、何とか元の俊に戻るよう最善の策を尽くすつもりですから」

きっとこの方だって自分の息子が心配でたまらないだろうに、こんなときまで自分を気遣ってくれる
そのやさしさが痛いくらいに嬉しくて

「はい、また来ます」

蘭世はかろうじて笑顔を作る

……そうよ、くよくよしてても何も始まらないのだから、わたしにできること、なにか探そう
持ち前の明るさをフル回転させて、蘭世は家路を急いだ



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