何度訪問しても慣れることのない緋色の絨毯の端っこをいつものように控えめに通りすぎ蘭世は
彼の待つ部屋の扉の引き手の仰々しい装飾にため息をつく
扉を開ければそこは謁見の間
『ごめんなさいね……相手が蘭世さんだといっても、私室はいやだときかないものだから』
『そんな……わたしは真壁くんに会えれば、それだけで嬉しいです』
初めてこの部屋に通されたときの王后とのやりとり
たとえそれが、他の者と同じ待遇で接すること───裏を返せば自分のことを全く覚えていないということ───を示していることなのだとしても、蘭世は本当にそれでよかったのだ
自分があせっても仕方のないこと。それよりも
記憶を失っているとしても、今この瞬間も大切なひとときなのだから
今を少しでも楽しく過ごすことを考えよう、と思えたから
にこりと微笑み、窓辺に立ち外を眺める彼にあいさつ
「こんにちはv 真壁くん」
「…………シュン、だ」
早いもので、もうひと月が経つ
ほぼ毎日のような訪問の初めのあいさつはいつも「こんにちは、真壁くん」
そしてそのたびにぴくりと反応し、けだるそうに修正する彼
記憶をなくしたあの日から、さみしいな、と思うのはここだけ
「真壁くん」と呼びたい……その想いはどうしても強くて
また、それまでのふたりを打ち消されるような気がして
「真壁くん」と呼んだことをどうしても謝ることができず、曖昧に微笑むのがやっと
給仕係が運んできた紅茶を優雅な物腰で一口飲み
彼が唐突に尋ねる
「……そういえば……おまえの能力は何だ?」
「え? えっ……と……噛み付くとその相手に変身できること……デス」
思わず敬語になる
パッと見の外観では、上品な仕立ての衣服を身に着けていること以外、何ら変わるところはないのだが
日に日に、人を寄せ付けない姿勢というか威厳というか、が深みを増し、態度が、人の上に立つ者のそれへと近づきつつあるように蘭世には思えていた
「……ほう。それは珍妙な能力だな。両親の種族は何だ?」
「……吸血鬼と狼女のあいのこです」
「あいのこ? 特殊な種族というわけではなく、突然変異というわけか。……平民か?」
「はい」
おそらく本当に問いたかったのは末尾なのだろう。それが読み取れる、瞳の色
「……そうか、残念だったな。今の私とおまえとじゃ、身分の差がありすぎる
それがなぜ母君があそこまで言うほどおまえとの仲を許され、深い仲になったというのか……」
ふうっと、溜め息をこぼしながら彼は続けた
「『真壁くん』は人間界で暮らすことを望んでいましたから……
なにものにも縛られたくないと、王の地位も、アロンに譲って」
蘭世の口調は、だんだんと俊をかばうものへと変わっていく。目の前の彼も俊であるはずなのに
そして彼の口調も
「そうらしいな。王となれば、黙っていてもこの国のすべてが手に入るというのに、愚かな奴だ
……まあ、私のことだが」
だんだんと俊を罵るものへと変わっていく
「縛られたくないというのもあるかもしれないけれど
身分とかそういうもの以上に大切なものがあるということを、『真壁くん』は知っていたんだと思います」
俊であるはずの彼が俊を罵る
それがなんだか切なくて哀しくて、蘭世はついつい語気を強めてしまう
自分自身に言い聞かせる意味もこめて
「……ふ……ん……」
一瞬だけ意外そうな表情を浮かべ彼は、すぐさまポーカーフェイスに戻り蘭世を凝視する
舐めるような視線が……怖い
俊の視線を怖いと思ったことなど、一度もなかったのに
「あ……の……」
なんとか話をつなごうとする蘭世の言葉を遮り
彼は蘭世の細い腕を掴む
「!?」
「……豪奢な器に守られた花もよいが、野に咲く花を愛でるのも一興か」
「…………!?」
不安定な姿勢で勢いよく腕を引き寄せられ、蘭世が思わずよろけた拍子に
テーブルの上の花瓶が派手な音を立てて落ち、活けてあった花と水とが飛び散るのにも構わず
彼は蘭世の唇を吸う
思わず体が萎縮してしまう蘭世
歯列をなぞるタイミングや強さ、温度までもが、蘭世にとっては懐かしい『真壁くん』のそれであり
けれども
「っ……!!」
体中の力をこめて蘭世は、彼の胸を突き飛ばしてしまう
「…………」
「……あ……」
『真壁くん』は
彼自身の持ち前の性分から、こんな開け放たれた明るい空間で蘭世を求めるようなことは決してなかった
それを蘭世が恥ずかしがったから、というのもその理由の一つだったのだが
今蘭世が拒絶してしまったのは、恥ずかしいとかその類の、頭で考えられる理由ではなく
反射的に、体がそう動いてしまっていたから
そしてそのことは、自分にとって目の前の彼が
『俊』であっても『真壁くん』ではない彼であるということを、証明してしまった
蘭世にとっては『真壁くん』はどこまでも『真壁くん』であり続ける筈だったのに
自分を見る彼の唇の端が少しだけ歪んだのにも気づかないまま蘭世は
挨拶もそこそこに飛び出していた
あの空間に居続けたら、心が崩れ落ちてしまいそうで
誰にも顔を見られないよう急いで飛び込んだ自分の部屋で蘭世は、こぼれる涙を拭うことなく
消え入りそうな声でいまいちばん逢いたいひとの名を呼ぶ
「…………真壁くん……」
その心は、自らの涙の作った海を危うく漂っている
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