「しようにんのむすこ」
周りの大人が自分を称するその言葉の、詳細な意味を汲み取ることはできなかったけれど
嫌悪感を込めて呼ばれているということだけは分かった
けれど、そんなもやもやが気にならなくなるくらい、ゆりえと過ごす時間は楽しくて
毎日のように、母の勤める屋敷へと通った
ふわふわと髪を揺らしながら踊るゆりえが、覚えたてのステップを踏み、ポーズを決める
どこにでもあるありふれたレッスン着が、華やかなドレスに変わるその瞬間を
高い庭木によじ昇り、眺めているのが好きだった
そんな自分の姿にゆりえはいつも敏感に気づいて
自分の家では見たこともないような、ぜいたくなおやつ───キラキラのキャンディや
テディベアの形をしたチョコ、やさしい色彩のマカロン───を手にいっぱい抱え駆け寄ってきて
ぽかぽかと日当たりのよい芝生に並んで座り、ピクニックごっこをした
けれどそんなやさしい時間は、あっさりと終わりを告げる
手を伸ばせば届くようでいて、自分とゆりえとの間には見えない、けれど絶対的な壁があるのだと知ったのは
木から転げ落ちる自分自身はともかく、ゆりえを護りきることができなかったあの瞬間だ
力任せに殴られた頬は、木の枝が刺さって負った傷と同じくらい、あるいはそれ以上に痛んだ
そして決定打は、突然訪れた母の死
黒と白で統一された、厳かな式の意味など、子供が判るはずがない
すこし前までのように、大人たちの目を盗みこちらへ駆けてきて
滅多に袖を通すことのない紺色のワンピースにはしゃぎながらにこにこと笑いかけるゆりえに自分は
そう思わなければ崩れ落ちてしまったであろう、ある意味糧となっていた思いをぶつけた
───おまえのせいで、おれのかあさんが死んだんだ
今朝もまた、子供のころの夢を見た
腕にほんのわずか残ってしまった傷跡が疼くこんな日は、その夢をよく見る
自分(と、ゆりえ)の何を知っているというのか、部活中など、やけにつっかかりながら
彼女の話題を出してくる、江藤蘭世との最近の会話の影響も大きいのかもしれない
たとえば、今この瞬間のように
「そうそう、あのね日野くん。さっき生徒会長とすれ違ったの」
「………………」
ストップウォッチを片手に、蘭世はちらりと意味ありげにこちらを見た
その『そうそう』は、いったいどこに係るものなんだ。パンチングボールを繰るリズムが一瞬ずれそうになる
これはまだ自分にとっては、集中していないと難しい代物なのだ
集中、───集中。目の前のボールと、ほぼひと月後に迫った試合に向けて
「……だから、何」
「ううん? ちょっとしたご報告。はい、終了で───す」
「………………」
と、けたたましく鳴り響く通知音を止めながら蘭世は、傍らに置いてあるタオルを手にした
『───いや、だから。なんでそれを、わざわざ今報告する必要がある?』
多分、自分がそう喰いついていくのをはかったうえでの台詞なんだろうと思う
タオルをこちらに寄越しながらの目線もまた、意味ありげなものだった
いい加減うっとうしくなりつつある。寝た子を起こすような真似は勘弁してほしいというのが正直なところなのだ
母を亡くしてもなお、未だ残る高い壁。たかだか使用人の息子ふぜいには、高嶺に咲く花に手が届くことはないのだと
ようやく諦めもついてきたところだというのに
だから、ここらへんで釘を刺すことにした
「江藤、おまえさ……あまりいろんなことに首突っ込むなよな」
「え? だって日野くんが素直じゃないから」
「あんまりおせっかい焼くと、真壁にチクるぞ。あんな小うるさい女、やめとけって」
「…………。真壁くんは、わたしがおせっかいだってこと……誰よりもよく知ってるし」
「………………」
───釘を刺すつもりが、見事なまでに玉砕した。そりゃもう何ていうか、ごちそうさま
向こうでシャドウボクシングをしまくっている色男に、かわりに釘を打ちつけてやりたいくらいだ
隠そうともせずぽっと頬を染める蘭世をじっとりと横目で見ながら、なんだか何もかもが羨ましくなる
きっとこいつらには、特にこれといった障害などないのだろう
(ふたりの間を割り込もうとする神谷曜子の存在も、多分ものの数にも入っていないに違いない)
互いに、自身が相手のとなりに立つことが当然のことで、そこには何の迷いも躊躇いも疑問も格差もなく
且つ、周りの人々にもまた当然のようにそれを認められ祝福され、あとは、絵に描いたような幸せの完成図が待っている
真壁だって、自分の前ではあんなスカした態度をとってはいるものの、二人きりになったりしたら最後
いそいそいちゃいちゃ、あれやこれや。甘い言葉を囁きながら、触ったり撫でたり舐め回したりと楽しんでいる筈なのだ
それならそれで。勝手にやってくれればいい。幸せのお裾分けとでもいいたいのか、それとも単に高見の見物気分なのか
こっちのことなど放っておいてくれるのが、一番の思いやりだというのに
「……余裕だな」
「えっ」
「いや……何の不安もなさそうでうらやましいこって、と」
「…………………」
きょとんとした顔で蘭世はこちらを見返す
しまった。この言い方は、自分には不安やらなにやらがあるのだと、自ら言ってしまったようなものだ
慌てて口元を押さえてみるも、時すでに遅し
けれど、蘭世の返してきた言葉と表情は、予想とはまったく別のものだった
「……そうでも、ない、かも……」
「え」
妙に寂しげなものになった笑顔の理由には、突っ込まないでおいた
なぜなら、その手の痛みについては、放っておいてくれるのが一番の思いやりだと思うからだ
バラック小屋を改造した部室は、生徒会の陰謀なのかどうなのか、構内でも辺鄙な位置にあり
そこから校門に向かう道のりは意外に遠いもので
ぐるりと校舎を大回りしたのち、ようやく帰路につくことができる
部活も終わり、他の面々とわらわら帰るその道中。ふと顔を上げると、ちょうど生徒会室のあるあたりに
一室だけ、まだ明かりがこうこうと燈っているのが見えた
「へーえ、生徒会のひとたちは、まだ残ってるのねえ」
それに目ざとく気づき、神谷曜子が感心したような声を上げる
なんだその絶妙な連係プレイは。そう思いつつそちらに目をやると、曜子は全く他意はなく、ある意味本能的に口にしただけのようで
蘭世はといえば、それに初めて気づいたかのように顔を上げ、目をそちらに向けていた
自分には関係ない。誰が残っていようと。たとえそこにいるのが、生徒会長のみであろうとも
なのになぜか目は自然とそちらを追ってしまい───豊かな蔦に囲われた窓から揺れるカーテンを室内へと引き戻そうとする
人影に気づいて、はっと息を呑む
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