“河合ゆりえ”という器が、実は不確かな、からっぽのものであるという事実は
かなりの意表を突くものであったらしい
それを告げた瞬間、彼は目を見開いたまましばらくこちらを凝視していた
まあ、無理もない話だろうなとも思う。当の本人も、今でこそ
咄嗟に口をついて出るまでにその事実を受け入れることができているけれど
発覚してしばらくは、茫然としてしまっていたから


今にして思えば。もう大人なんだからと変に背伸びして、中等部への入学手続を自分で執り行うなどと宣言し
その過程で、付随資料をじっくりと眺めてしまったりしたのがまずかった
戸籍抄本の、つらつらと判りにくく書かれた注釈の下に見つけた自分の名には、「養女」の枕詞つき
それを手にしたまま、明かりもつけずに座りこんでしまっていた部屋へ
仕事を終えていそいそとやってきた父の、一瞬にして血の気が引き、真っ青になった顔は忘れられない

実の両親は、交通事故・ほぼ即死状態だったという
ひとり生き残ったものの、他に身寄りもなかった(多分言葉を選んでくれていると思う)当時の自分は
施設に預けられ、そこで、今の両親の目に留まることになった
抱き上げた腕の中からふたりを見上げる顔が、亡くしたばかりの実の娘のそれに
生き写しだったのだという

折りをみて、話すつもりではいた。けれど、できることなら、話さずに済むのなら
隠し通したかったとも言っていた
なぜなら、血のつながりの有無など関係ないくらいに、自分を愛してくれているから
余計な混乱を巻き起こすくらいなら、秘密裡に済ませておきたかったのだと

そりゃそうだ。自分が両親の立場にあったとしても、きっとそう思うに違いない
考えさせられることは山ほどあった。実際、どうしようもないまま泣いた
けれど、たださめざめと泣き続けるには、自分は大人になりすぎていた


今の自分が“河合ゆりえ”であることには、感謝こそすれ不満など欠片もない
けれどそれが、今の彼と自分とを隔てる壁のひとつとなっているのであろうこと
そしてそれにも関わらず、自分が本当は、それに見合うほどの存在ではないことが、ただ哀しくて歯痒かった
相手がどう思うかなどと微塵も考えず、衝撃的な事実をあんな場面で口にしてしまった自分の身勝手さを
いちばん的確に映していたのが、先刻の彼の表情なのだろうと思う
それだけは、申し訳ないような気がする。けれど、それを悩むこと自体、今更な感もある
それを言うなら、突然なんの脈略もなく(しかもつい先日、彼の顔面に枕を投げつけたという経緯つき)
家に押しかけてしまったこと自体、いかがなものかという話だろう

いつの間にかひどく遠くなってしまった彼との距離を、少しでも縮めたい。その思いが募るあまりとはいえ
我ながら、大胆な真似をしてしまったものだ
けれど、そうせずにはいられなかった。決めたのだ。自分の気持ちに正直で在ろうと
泣くのもいじけるのも、動いてから、彼の気持ちをこの耳で聞いてから、或いは
本当に嫌われてしまってからにしようと

「…………ふふ」

申し訳ないと思いつつ、先刻の彼の表情を思い出したら、笑みが込み上げてきた
玄関の扉を開け自分の姿を確認した直後の、真ん丸な目。子供のころからちっとも変わっていない
彼の驚いた顔───感情を消さない表情なんて、久しぶりに見ることができた
それだけでも、今日ここに来てよかったと思う

そして、半ば押しつけるようにしてきてしまったあのメニューを、ほんの少しでも役立ててくれたなら
きっと自分は、空も飛べるに違いない

 

笑みに次いで込み上げてきた欠伸を懸命にかみ殺しつつ、すっかり陽の落ちてしまった家路を急ぐ
それまで足を向けたこともなかった彼の家は、意外にも、自分の家と近いところにあることに
実際歩いてみて、ようやく気がついた
今日は早く寝よう。連日の夜更かしに加え、今日のことを思い、結局一睡もできなかった昨夜の分まで



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ちょいと言い訳:
・現状、入学時に「戸籍謄本(抄本)」を必要とされるところは少ないのかもしれません
(「住民票記載事項証明」等が多いのかな?)が、原作が20年以上前の作品なので
あえて「戸籍抄本」にしてみました。よくあるじゃないですか昔のドラマで。あれを踏襲です
ゆりえさんが小等部から聖ポーリア学園の生徒なのだとしたら、この発覚の仕方は
かなり無理があるかもしれませんが、その辺は目を瞑ってくださいまし
(発覚の仕方自体、私の捏造(妄想)です)

・ゆりえさんの実の両親の死因のソースは不明です。…ので、これまた妄想(捏造)です