アイデンティティ

本日の愛良のメイン業務は、ぎっしりと保存容器に詰め込まれた、栄養たっぷり愛情はもっとたっぷりの惣菜を、兄と義姉の住む部屋まで届けることだった
できるだけふたりの力でやってみたいと魔界から帰ってきてはみたものの、はじめての子育ては何から何までてんやわんやで、毎日ぐったりなのよ……とこぼす割には小綺麗に保たれている部屋で、お茶とお菓子の歓待を受ける。作ったのはあたしじゃないんだけどねと言うと、おまえは手を出すな・出しても器に詰めるだけにしろと真顔で言い含めてくる卓のとなりで、ココは運んでくれるだけでありがたいと神か仏かと言わんばかりの勢いで拝んできた(これはこれで)

先日生まれたばかりの吾子を抱く卓の手つきがだいぶ手馴れてきたことをからかったり、すっかり母のそれとなったココの横顔を相変わらず綺麗だなと思ったり。気安い間柄だからこそわちゃわちゃと続く会話の流れは自然と、最近再開した愛良の魔女修行の話へ及んでいった

「うーん……三歩進んで二歩下がってる感じかなあ」
「えっ。なにかあったの? らしくない言い方しちゃって」

愛良の表情が目に見えて曇ったのを見てとったココは、あぶあぶと手を伸ばすねねを卓から引き受けながら、注意深く尋ねた

「なにもないんだけど……なにもないのがダメっていうか」
「なんだよもう飽きたのか? 早くね?」
「ち・が・い・ま・す! ちょっとずつ進んでるし! ただたまにむなしくなるだけっ」
「むなしく…………??」

卓とココは思わずといった感じで顔を見合わせた。愛良は確かに勤勉なタイプではないが、「むなしい」というワードはそぐわないように思われたから
ただ、話の論点はそこではない

「あたしが多少修行を積んだところで、結局おとうさんがさくっと解決するし、ついでにいうと、おかあさんはおかあさんで実は強いし。どうなのかなって」

はっきりむなしいと言葉にしてしまったが最後、ため息すらもむなしく感じられる。愛良的には噛み砕いて説明したつもりだったが、目の前の兄夫婦はいまいちピンと来ていないようだった

「えっなに、まさかおやじ越え目指してんのかおまえ」
「ええ……。そりゃ基礎能力は愛良のほうがすごいって聞いてるけど……。お義母さんが絡んだときのお義父さんより強くなるってのはちょっと……かなりむずかしいんじゃないかしら……」

そんなことは分かっている。「そのとき」の父に勝てる者など、この世のどこを探しても存在しない

もともと修行を再開した動機がなんだったかといえば、「大切なものを守りたい」だった。正体不明のなにかに狙われているとおぼしき母を、さらに危険が及ぶかもしれない他の誰かを。たとえ父がその場にいなくとも
それだけに、今般のイベント(と銘打つのは不謹慎だが、それこそ『喉元過ぎればなんとやら』だ)が、参加した感もなく、当然のことながら達成感もないままに、すんなりと終了してしまったのは、それなりに堪えたと同時にいろいろ考えさせられた。自分の力でなにかを解決するなんておこがましいのではないか、そもそも自分なんて誰の助けにもならないのではないか、ちょっとずつしか進歩のない修行を続けていく意味はあるのか───

「そうやっておまえがちょっとでも役に立ちたいからって修行を再開したの、おやじもおふくろも嬉しかったと思うけど……それでいいんじゃねえの、ちょっとだろうがなんだろうが」

つらつらと愚痴っぽくなってしまったところに、卓はさらりと返す
ぶっきらぼうな物言いながらも、自分を慰めようとしているであろうことはなんとなく伝わったが、それでもその冷静さがやたらと癇に触った

「ああもう! ちょっとちょっとって何回も言わないでよ!」
「はあ? 『ちょっと』はおまえが自分で言ったんだろ」
「それは言葉のあやだしっ」
「知るか。だいたい、修行がうまくいってないからって人のせいにすんなよな」
「卓! それは言いすぎっ」

その場の空気がピリついたのを感じ取ってなのか、仲裁に入ったココの声が思いのほか鋭い響きだったからなのか、ココの腕のなかでおとなしくしていたねねは、突如、火が着いたように泣き出した。決まりが悪くなり黙りこむ兄妹を尻目に娘をあやし、窓の外を指さしながらココはさらに言い放つ

「頭、冷やしてきなさい。卓」
「えっ、おれ!?」
「他に誰がいるのよ。ついでに牛乳切れてるから買ってきて」
「…………」

当然のように追い払われたこの家の家主は、憮然としながらも、抗う隙のない妻の迫力に屈するしかなく、とぼとぼと足取り重く家を出ていった。同じくその迫力に圧倒されながら愛良はその後姿を見送り───紅茶を淹れなおすべくココが席を立とうとするのをようやく制した

「ココおねえちゃん……なんか、ごめん……。」
「いいのよ、牛乳ないのは本当だし。……ただ愚痴りたいだけ・聞いてほしいだけってときもあるわよね」
「うん……。あとでおにいちゃんにも謝っとく……」

また今度でいいわよ、とココは屈託なく笑った

甘やかされているなあ、と思う。言い過ぎでもなんでもないのは自分自身がいちばんよくわかっているのだ
世界を救った大魔女様と持ち上げられていても、たいした働きができているわけではなく、修行の成果も芳しくなく、八つ当たりした挙句それを指摘されれば逆ギレするのが関の山。気持ちばかりが先走り空回りで、確かなものはなにもない。自分がいなくても世界がまわっていくのは本来当たり前のことなのに、それがしんどい。ある意味傲慢な悩みに捉われて、ずるずるとただ落ちていくだけ

こういうとき、自分を全肯定してくれたあのひとに会いたくなる

いまはもうずっと遠いところに行ってしまった彼の名を、すんでのところで愛良は熱い紅茶と一緒に飲み下した。これ以上甘えるようなこと───やさしいひとたちの前で涙を落としてしまうようなことはしたくなかったから



→ 赤魔導士は荒療治