20センチ

今日は卓の引っ越し当日だった。といっても、新調した白物家電その他大物の家財は、前もって専門業者が配送かつ大まかな設置まで済ませてくれていたので、家主プラス二名の主な業務は、配送の動線を鑑みて当日まで移せずにいた数点の荷物を運び入れ、所定の位置に納める作業だった
卓の荷物が、実家私室の壁際に積んであったダンボール数箱と日用雑貨、当座の食料のみというのは、ココとしてはかなりの驚きだったのだが、当の本人は、野郎ひとり暮らしの荷物なんてそんなもんだし、今からいっぱいあっても困るだろ、となんでもないことのように笑った

そんなわけだから、プラス二名のうち愛良の場合は、あらかた作業が終わりつつあった時間帯に、伯母が作ってくれたという休憩用のおやつと、夕飯用のお弁当を運搬してきたのがメイン業務だった……午前中、家具の配置を卓とふたりであれこれ言い合いながら調整しているところを見られなかったのは良かった。あるいは見ないよう調整されたのかもしれないけれど……
というわけでいまは、卓が各種配線を相手に奮闘している横で、すっかり手空きになった女子ふたりがしゃべっている状態だった。ちなみにおやつはほとんど女子ふたりのお腹に収まった

一軒家とマンションと。箱は変わってもいつもの風景が続くものと思っていたのだが、そう思っていたのはココだけだったようで、愛良の唐突な申し出でそれは終わりを告げる

「さて……あたしそろそろ帰るから」
「え!? 泊まっていかないの!?」

ココの素っ頓狂な声とは対照的に、しん、とその場が静まり返り、卓と愛良はそろりと互いの顔を見合わせた

「……って、家主でもないわたしがいうのも変だけど……。あの、いきなりひとりになると卓がさみしいかと思って……」

慌ててつけ足してみたものの、かえって変な空気になった。心にもないことを口にしたというわけでもないのに

正直なところココは今日、この部屋に泊まるつもりでやってきた。けれどそれは愛良もお泊りすると思っていたからこその話だ
卓本人は無口なほう、且つひとりでも大抵のことはこなせるとはいえ、いままでにぎやかな家族に囲まれて暮らしていたのが、突然ひとりになるのはさぞかし寂しいことだろう。ちょうど愛良も春休みなのだし、今晩くらいは三人で過ごして、徐々にひとりに慣れていけばいいのではないか───というココの想定は、眉ひとつ動かさない愛良の意見にぶった切られる

「わざわざお客さん用のお布団おろす必要ないでしょ。せっかくしまったのに」
「…………」

それは確かにそう。そうなのだけど……そうではなく……

「ま、ココおねえちゃんはごゆっくり。あとは若いふたりで……ムフフ」
「愛良っ!! わたしも帰るってば!!」
「えっ帰るの? ウソでしょ!?」
「おいマジか」
「なに言ってるの卓まで!」
「ええ……」

卓と愛良は、ちょっと何言ってんだかわからないとでも言いたげな顔でココを見た

繰り返しになるが、確かに今日はこの部屋に泊まるつもりでやってきた。しかし、やはり繰り返しになるが、愛良が帰るのであれば話は別。卓はあくまでひとり暮らし! 今日はあくまで引っ越しのお手伝い、のみ!
今後はゆっくりお泊りだったり長期の滞在だったりをふまえつつやって来る、そして最終的には一緒に暮らすことになるのだとしても、引っ越し初日から居座るなんてそんな、しょっぱなから最終目標をあからさまにするような慎みのない真似は断じてできない、たとえバレバレなのだとしても! 物事には順序というものがある!
……と、頭のなかでぐるぐる渦巻く思いをどう主張したものか。冷静に考えればそれをそのまま言えばいいのだが、ぽかんとしたままのふたりにずっと見られていると……ココは自分のほうがおかしいような気がしてきた。すると愛良が爽やかな笑みをたたえながらココの肩をぽんぽんと叩く

「あーもーココおねえちゃん、そういうのやめよ。安心して、あたし口堅いから」
「えっ」
「ところでおにいちゃん、ここに来る途中であたし、たまたま……たまたまよ? かわいいケーキ屋さんを見つけちゃってね」
「そりゃいいな。今度奢るから、うまそうなの見繕っとけ」
「オッケ~♪」
「えっ……。え?」

おろおろするココを無視して兄妹間の会話はつつがなく進んだようで、愛良は颯爽と去っていった
卓はそれを玄関先で見送りながら指先をちょちょっと動かして───夕暮れどきとはいえひとり歩く妹を護る結界を施して───ドアとチェーンを閉める

「買収完了」
「ええ~~~!?」
「大丈夫だ。あいつだってつつかれたら困る秘密のひとつやふたつ……いっぱいある。わざわざ共倒れになるほどバカじゃない」
「…………」

買収とは。大丈夫とは。そういうことじゃないのだ、愛良が秘密を守るから・誰にもばれないから大丈夫、ではなくて───。………じゃあ何がいけないんだっけ?
またしてもぐるぐるし始めたココを敢えて無視して、卓は真新しいカバーが設えられたベッドに寝転がる

「……そんなボーっと見てないで、試してみれば。結構いいぜ」
「う、うん……」

肘枕で寝転がるその傍らを指さしながら卓は言った。ぼうっと見ていたつもりはないけれど、促されるまま横になってみると、確かにそのマットレスの寝心地は結構いい……いや、すごくいい。軽く押してみたりごろごろしてみたり、ココが適度な反発を楽しんでいるのを、まんざらでもない顔で眺めつつ、卓はベッドの端までの距離をココ越しに確認するように見た。同じく逆方向も

「店ではでかく感じたけど、並んでみるとそうでもないな。……まあ、ひっついてるか上か下かだから、案外ちょうどいいか」
「上……。……下!?」

おもむろに差し込まれた聞き捨てならないフレーズにココは抗議しようとして、その瞬間ぐっと抱きすくめられた。確かに広すぎず狭すぎずちょうどいい広さ……ではなくて!

「……このベッド」
「え?」
「見られた瞬間、セミダブルって速攻バレた。ホントあいつ、いらんことばっかり気づくよな」
「うそっ」

いつも魔界の自室では広い部屋に広いベッドを使用しているので、そもそもの空間把握がうまくできていないということなのか、比率の錯覚なのか。これまでの卓の私室より二畳分ほど広いこの部屋に鎮座しているセミダブルベッドと、卓の私室に配置されたシングルベッドは、ココにはさほど変わらないように見えた。またこのベッド自体、シンプルなフレームでマットレスも気持ち薄め、空間を圧迫しないうんぬんかんぬん……とにかく広く大きく見えないものであることは店員のお墨付きだったというのに、愛良の鑑識眼に素直に驚かされた

「さっきも……。一旦いっしょに出て、適当にまいて帰ってくるかとも思ったんだけど」
「えっ」
「なんかそういうのいいかなって。どうせすぐバレる」
「…………」
「帰らないだろ?」
「…………っ」

本当の本音をとっくに探り当てているくせに、こうして駄目押しをしてくるのはずるいなあ、とココは思う。何に対して悩んでいたのか───理想の自分との差違にこだわることがそれほどまでに重要なのか、いよいよ分からなくなっているのに
本気で帰ろうと思えばそのタイミングはいくらでもあった。今のいまだって、背に回る腕の力は振りほどくことができないほどではない。卓の胸はあたたかい。こうして簡単に絆され流されるのはいけないと思っていた筈なのに、何もかもどうでもよくなってしまうくらいに。ずっとこうしていたいと思ってしまうくらいに

「……はしたない、とか思わない?」
「はし……、何て?」
「初日からふたりきりなんて……いかにもそのために来ましたみたいな……」

それでも尋ねてしまう自分も大概だと思う。言葉の裏の裏を探るようなことはもう必要ないのだと確認し合ったのはずっと前のことなのに

「…………」
「…………た、卓……あの」
「いやー実家暮らしからいきなりひとりはさみしいなー。さっきまで全ッ然そんなことなかったのに、あーツラくなってきたなー」
「!?」

卓はココの問いに答えを示さず、棒読みにもほどがある丸太のような一本調子でそう言った。そして、こんなときにふざけるなんて、というココの抗弁を吸い取るかのように唇を重ねる。ねじ込まれた舌がなにかを探し回るように蠢いて、力が抜けた腰を強く引かれた。そうしないと意識すらも取り落としそうでぎゅっと閉じていた目をようやく開くと、「上」から覆い被さる形でのしかかった卓の顔がすぐ目の前にある。その面差しにからかうような色は少しもなかった

「逆に訊きたいんだけど、帰すと思ってんの?」

ぞくり、と背筋に震えが走ったのは、キスの余韻ばかりではない
ただ首を左右に振るしかできなくなってしまったココを満足げに見て、卓はその身を沈める。肌を撫でる吐息と唇の甘やかな熱に押し流されるように、ココは再び目を閉じた



→ 君のいない部屋