夢で逢えたら 03 幽夢

この学園に養護教諭として勤務している曜子の根城であるここ保健室は、窓の直ぐ側に立つ欅の枝葉から陽の光がやわらかくこぼれ落ち、秋も半ばに差し掛かったこの時期は特に、常にぽかぽかとした心地よい空間となる。ただその心地よさはいささか危険だったりもする。穏やかな気候のもと、生徒たちも心身ともに安定しているという安心感もあり、昼休み後半、昼食を摂りいい感じにお腹が膨れたころ、うつらうつらと舟をこいでしまうからだ
机に突っ伏して爆睡したりはしないし、念のため昼休み終了時刻に合わせたアラームも常にセットしているし、部屋の外で起こったほんの少しの物音でも目が覚めるので、勤務態勢としての問題はない。多分。ただ、眠りが浅いせいなのか、よく───いつも同じ夢を見る。その夢が問題なのだ

その夢は小学校の風景から始まる。ランドセルを背負った自分がなにかを必死で追いかけて、そのうち周りの風景は中学校の教室、廊下に変わる。セーラー服を着た自分がやはりなにかを追いかけていて、途中で横槍でも入ったのか、たまに横を見ながら誰かを妨害しているような、じゃれ合っているような動きをする。そしてさらに場面は展開し、高校、いま勤めている中等部のとなりにある高等部の学舎へ。相変わらずなにかと競い合うようになにかを追いかけている。そして最後のシーン。祝福ムードに包まれたチャペルの大階段を前に、小ぢんまりとした花束を手にした自分がなにやら啖呵を切っている───そこで、いつも目覚める

基本的に、『なにかと並走しながらなにかを必死で追いかけているもうひとりの自分の姿』無声映画のように展開するその姿を、どこか高いところから見ている形で夢が進む。その夢以外にもそれなりに夢は見るのだが、当たり前に音声はあるし、一人称の夢とでもいうのか、自分自身の視点で進む夢ばかりのなか、不思議なことに、その夢だけは唯一無音、かつ、第三者から見た視点で展開されるので、かえって印象が強いのかもしれない。また、これだけ何度も夢で見ているのに、そこに登場するなにか───並走している相手も追いかけている相手も、具体的に何なのか・誰なのかは、さっぱり分からない。なのになぜか、ひどく懐かしいものに思えたりする。そしてなにより、夢に登場するもうひとりの自分は、とても楽しそうなのだった

夢は、自身がそれまでに得た情報を脳が記憶として整理する過程で見せる映像なのだという。また、夢は見る人の願望のひとつなのだとも

曜子はなぜか、過去の記憶がところどころ、ある程度の期間ずつすっぽりと抜けている。もしくは、記憶がまだらな部分があるというのか───小学生のころは楽しかった、中学生になって、もっと楽しくなった、高校生のころはなぜか途中までの記憶がないけれど、途中からまた息苦しいほど楽しい日々だった。……はずなのに、なぜ楽しかったのかはまったく思い出せない。それが件の夢にリンクしているようで、目覚めた後はしばらく悶々としてしまう。そのころのアルバムを見てもヒントはなく、写真ひとつひとつにすら物理的な余白がやけに多かったりして、それを撮った父のカメラの腕前はどれだけ酷かったのかとしばらく笑ってしまった
そしてそれは、いま現在に関してもそうだ。楽しい。そして結婚も控えていて、とても幸せ。けれど、本来ならもっと楽しいはずなのにと思わされる瞬間がある。幸せを分かち合う相手がもっと他にいたはずだと。なにかが足りない。満たされない。単に、あれもこれも望みすぎなのだろうか。それとも、知らず知らずのうちに進行形で、なにか大切なことが記憶から抜け落ちてしまっているということなのか

専門医の見立てでは、脳機能になんら問題はない、むしろ人並み以上の高性能だと太鼓判をもらった。では心理的なものからきているのか。少なくとも自分では、夢でしか逢えないなにかに翻弄されるなんて本来の自分らしくないと思うのだが。じゃあ『本来』とは?

保健室に来るのは、怪我をした、あるいは体調を崩した等、はっきりと症状がある生徒だけではない。なんら処置を必要とせず、脈略のない雑談をしばらく交わしただけで、けろりとした顔で教室へ戻っていく生徒たちもかなりの数を占める。なにかの足しになるかもしれないと、曜子は最近、心理学、とくに臨床心理学について学び直していた。けれどもしかしたら、カウンセリングが必要なのは自分のほうなのかもしれない。机の上に開いたままの資料を横目に、そんなことを思ったりもする

「……いずれにしても、健康な精神が宿るのは健康な身体よね」

霞のように胸にかかるモヤモヤを吹き飛ばすべく、グラウンドでもひとっ走りしてこようか。椅子から立ち上がった瞬間、カツンとひとつ軽やかなヒール音があたりに響いた







「───あっ」
「あ、曜子先生……」

保健室のドアを開けると、ちょうどそこに立っていた生徒とばっちり目が合った。市橋なるみ。曜子の家や別荘に遊びに来たりと、親しくしている生徒のひとりだ。たまに犬と真剣な顔で喋っていて、そんなときなんだか犬のほうも神妙な顔で頷いているように見えたりして、傍から見ているととても面白い
そんな印象がずっと強かったのだが、最近は、廊下の窓から遠くを見ている姿を見かけることが多い。その視線の先にあるのは何なのか。いつだったか、「好きなひとでもできちゃったりした?」と、からかいついでに尋ねると、風に揺れる艶やかな髪を押さえながら、静かに首を振った。その切なげな微笑みが、なんだか突然大人になってしまったような気にさせられ、この年頃の子供たちの成長には、うかうかしていると追いつけないのだとひそかに舌を巻いたのだった

「どした? なんか具合悪い?」
「あっ、たまたま通りすがりです。次、理科で……今日あたし日直なので、ちょっと早めに行って準備しておこうかと思って」

とはいえ早く来すぎました となるみは笑った。理科室は保健室から見てトイレと昇降口を挟んだすぐそこにあり、始業までまだ20分はある。なにか実験の器具を整えるにしても余りある、中途半端な時間帯だ

「そう。いいところに来たわねえ。これからグラウンドをひとっ走りしてくるところなんだけど、なるみちゃんもどう?」
「えっ。あ、じゃあおともさせていただきます、けど……あの、その靴で行くんですか」
「もちろんよ~。大人の女子はヒールで駆け抜けてなんぼってヤツよ」
「ええ~!?」

けらけらと笑いながらなるみは曜子のとなりについて歩き出した
こちらの装備を気に掛けはしても、基本的には断らないところがいいなと思う。ノリがいいというかソリが合うというか。ソウルメイトとかいうと大袈裟が過ぎるかもしれないが、彼女とは、性格というよりもっと深いところ、言うなれば魂の部分で似ている気がするのだ。そして、ちょっと『   』にも似ている

「…………?」

いま、何を思い出しかけた? いや、誰のことを?

失くした記憶の糸口が、突然見えたような気がした。なんとか引き出したい、引き出さなければ。意識のすべてを持っていかれた曜子の足が、その場でピタリと止まる。一方、それに気を取られたのか、なるみはその場でつんのめり、携えていた荷物をばさばさと取り落とした。その音で、深く沈みこもうとしていた曜子の意識は一瞬で引き戻されることになった

「───あ……」
「あ! ご、ごめんなさい。躓いちゃった……」
「いや、わたしが急に止まったからよね。ごめん」

ふたりはその場に座り込み、一帯に散乱したペンやプリント類を慌てて広い集める。授業用とは異なるのだろう、少し離れたところに薄い桜色をしたノートが開いた状態で落ちていて、それに手を伸ばすと、彼女の丸みを帯びた小さな文字で、なにやら散文的な文章が書き連ねてあるのが見えた。その中で数多く繰り返されている、たぶん人名と思われるフレーズが、なぜかするりと口をついて出た

「りんぜ、くん……」
「!!」
「あ! ごめん! 見るつもりはなかったんだけど、見えちゃった……」

曜子がそのノートを手にしているのを見るやいなや、なるみは目を見開いた
……やってしまった……。これは見てはいけないもの、たとえ不可抗力で見えてしまったとしても、見たとは絶対に言ってはいけないものだった。自分にもそういう、誰にも言えない心の叫びをつらつらと書き連ねた時期があったというのに、それを見てしまう、ましてや読み上げてしまうなんて、とんでもない失態だ
曜子はそれを光の速さでばっと閉じ、彼女の手に差し戻す。彼女はそれを胸に抱え込んだまま、なぜかすがるような表情でじっと曜子の顔を見つめ───ほどなくして、ひどく打ちひしがれたように深い溜息をついた

「あ、の……。なるみちゃん、ごめ……」

そちらにそっと手をやると、彼女は一変、俯いていた顔を上げ、いつもどおりのよく響く明るい声で話し始める

「やあもう、恥ずかしい! 曜子先生、みんなには内緒にしてくださいね!」
「へ? あ、ええと……??」
「これ、夢日記なんです! 最近、見た夢を記録しておくのにハマってて、小説……そう、小説のネタにしようって思ってて!」
「小説? あ、ああ……じゃあ、演劇部のオリジナル脚本とか期待しちゃっていいの?」
「うっ、バレてる……。まかせてください! とか言っちゃって、いつまとめられるかわからないけど……」

そう言うと彼女はプリントを拾う作業に戻っていった
なるほど、夢の顛末を小説に仕立て上げる、と。似ているとは思っていたが、まさか、夢になにがしかの形で拘っているところまで似ているとは。彼女とは、深そうで意外と浅いところまで繋がっているのかもしれない。勝手な親近感がますます強まるのを感じながら、曜子はあさっての方向に飛んでいったままの消しゴムに手を伸ばした







そうこうしているうちに意外と時間を取られてしまい、女子ふたりでグラウンドを駆け抜ける計画はお流れとなってしまった。次回(?)へのリベンジを保健室の前で固く誓い合い、手持ちの文具類をしっかり抱え直したなるみは理科室へと向かう

日々ノートにしたためている、いまとなっては大切な習慣となった彼への手紙はもう三冊め。それを見られてしまったのは、偶然かつ恥ずかしいアクシデントではあったが、それ以上に驚かされたことがある。───曜子があのとき、『鈴世くん』という表記をなんのつっかかりもなく『りんぜくん』と読んだことだ

あの最悪な事件のあと、自分以外の人々の記憶が操作されたことをなるみは知っていた。家族や友人や教師たち……誰もが、ここにいたはずの彼とその家族のことをすっかり忘れてしまっている。あんなに楽しかった日々が、なかったことにされている

ふたりのために世界があるわけではないし、自分だけが覚えていればいい。自分だけは毎日、いつも何時でも彼のことを思っている。それだけでいいつもりだったけど、それでも気づかぬうちに心は少しずつ磨り減ってしまっているのだと気づいた。自分以外の誰かの声で『鈴世くん』と形作られるだけで、ひどく動揺してしまったから。もしかしたら の可能性を願ってしまったから。人間離れしたパワーでいつもイキイキとしている彼女なら、彼のことを覚えているかもしれない。そう、一瞬のうちに期待してしまっていた

ひとりはつらい。大勢の中でのひとりはもっとつらい。だからといって彼を想うこと、待つことをやめ、すべてを諦めるかというと、まさに『それはそれこれはこれ』。そんなことはできないということも分かっているのだが、それでもたまに弱音が口をついて出てしまうこともある

「せめて夢の中だけでも……会いたいなあ」

見上げた窓から射し込むあたたかな光が、いまはやたらと目にしみた


→ 04 逡巡