和氏之璧 -完璧超人と野球少年の話- (1)
急な残業で帰路につくのが少し遅くなった鈴世がリビングのドアを開けると、そこにはひとり、珍しい客が待ち受けていた。その客──卓は、鈴世の顔を見るなりひとこと、「遅くない?」とつぶやいた
卓が、他の家族に連れられて ではなく、ひとりでこの家に来訪する機会は、その年齢が上がるにつれてぐっと減っていた。ましてや、鈴世(だけ)に用があって訪ねてくるなんて、レア中のレアだ。事前に伝えおいてくれれば、仕事などそこそこにさっさと帰ってきたのに
ならばせめて、最優先で対応せねばと意気込む鈴世に対し、卓は、食事や風呂を先に済ませろと言う。あとは寝るだけの状態にして、じっくり話したいという意味なのかもしれない
そのまま父母と卓が談笑を続けるのを眺めながら、鈴世は食事をとり始める。なるみが醤油を手渡しながらひそめた声で言うことには、この訪問については、卓から口止めを強くお願いされていたらしい。社会人である鈴世に対して、私用で気を遣わせたくないからとのことらしいのだが(そしてその見立てはまんまと的中している)、そんな大人びた仕草ができるようになったのかと、妙に感慨深く思えた
「随分待たせちゃっただろ、ごめんな。なるみも言ってたと思うけど、こういうときは、リビングだけじゃなくてこの部屋にも入って遊んでていいよ。ゲームはつなぎっぱなしだし」
「うん。でもそんなに待ってないから大丈夫」
「そう? まあ、これからもね」
「うん」
言いつけどおり食事と風呂を済ませ、夜半前となったいま、ふたりがいるのは、鈴世の仕事部屋兼私室だった。幼少の頃から使っているこの部屋の本棚には、参考書が増えたものの、漫画本もいまだ陣取っており、向かいのラックにはゲーム機やら音響やらが所狭しと並んでいる
結婚を機にこの家に同居となったなるみの私室は別にあり、ついでに言うなら夫婦の寝室も別にある。つまり、いろんな気遣いは無用なのだが、卓からしたら、そういうわけにはいかないらしい。もっとも、孫の珍しい単独来訪に湧き立つ祖父母(父母)に気を遣ったのかもしれないが
鈴世がすすめたクッションに、卓はさっと腰を下ろした。鈴世はそれを待って、テーブルを挟み向かいに座る。よほどお人払いを気にしているのか何なのか、卓はちらりとドアに目をやり、ゆっくりと鈴世のほうに向き直った
「鈴世となるみおねえさんってさあ、どっちが先に告ったの」
「……急だね? ぼくからだよ」
「ふうん」
何につけてもグイグイくる愛良ではなく、卓が、こんな話題を出してくるのは珍しい
連続で繰り出される「珍しいこと」にうろたえつつ、隠しだてることでもないのであっさり答えてしまったが、それに続く卓の言葉に、鈴世は、うろたえるのはまだ早かったのだと思わされた
「おれ、こないだ告られた」
「おおー……。やるねえ。卓ももうそんな年頃かあ」
「そう? フツーでしょ」
「普通……そうか、普通ねえ……」
「普通」。なるほど。自分のことを思い起こしながら鈴世は思う。卓の年齢は、なるみに一世一代の告白をした当時の自分の年齢と大して変わらない。当時は、姉からませてるませてるとからかわれたものだったが、今となってはそれが「普通」らしい。実際、いま鈴世が担任として受け持っているクラスの生徒たちからも、惚れた腫れたの話は多少漏れ伝わってきていた
「面倒だから断ったけど」
「面倒って……」
展開が早いのもまた「普通」の範疇ということか。あっさり言い放つ卓の姿を見つつ、鈴世はずっこけそうになる
とはいえ……誰彼かまわずいい顔をしろとまでは言わないものの、断る理由が『面倒』の一言なのはいかがなものか。野暮な詮索だと自覚しつつ問いを続けると、卓は卓で思うところがあったのか、素直に応じた
「その子は、どういう……。友達だった、のかな?」
「となりのクラスのヤツ。学校ですれ違うくらいはあっただろうけど、喋ったことはなかったから全然知らない」
「そうなんだ」
「うん。で、クラスが違うからその分、毎日いっしょに登下校したいとか、休みの日は遊びに行きたいとか……とにかく一緒にいたいとか言われて」
「……お、おお……。なるほど……」
「家の方向全然ちがうみたいだし、放課後も休みもおれはリトルで忙しいし。だから断った」
「うーん……」
試合見に来てたらしいから、リトルのことも知ってるくせにさ と卓は小声で付け足した。リトル=リトルリーグ。いまの卓の「いちばん」はこれに尽きる
すこし前、鈴世は、卓がスタメン出場する試合を見に行ったことがある。攻守ともに満遍なく活躍していたが、なにより記憶に残るのは、同点のまま進んだ9回裏、ツーアウト満塁・一打出れば逆転サヨナラという絶好のチャンスかつ重大なプレッシャーが圧し掛かる打席で、青空を突き抜けるようなホームランをかっ飛ばした姿。身内でも惚れ惚れする大活躍だ
あんな勇姿を目の当たりにすれば、骨抜きにされる女子のひとりやふたり……大量発生してもおかしくはない。そんな女子が、みんなのヒーローである卓を独り占めしたくなる気持ちも分かる。だからといって、結果的に卓の「いちばん」を制限することになるような真似をするのは、悪手が過ぎる。卓が即断したというのも道理がいく話だ
「……で。断って、それで終わるかと思ったんだけど。そいつのツレが同じクラスでさ。最近ずっとそいつらにガン無視されてる」
「ええ……。最近の小学生も大変だなあ」
「大変ていうか……めんどくさい」
心底うんざりした表情で、卓は「面倒」を繰り返す。実状が判明したいま、それを咎めるような言葉を鈴世は持ち合わせていない。たしかに面倒くさい話だ
氷が解け、薄くなった麦茶を飲み干す。コースターに残る水滴を気にするようなそぶりをしながら、卓はぼそりと呟いた
「……結局さあ、おれのことが好きってわけじゃなかったんだよね」
「え?」
「好きだったのは、あいつが勝手に作り上げたおれの幻影ていうか。いままでろくに喋ったこともないのに、優しいとかどうとか言ってた。そういえば」
「あ、ああ……なるほど。深いとこ突くね」
「それだけなら勝手にどうぞって話だけどさ。突然いろいろ言ってきて、その言い分を断ったら即、冷たいヤツ扱いって! 知らねーよって。そのうえツレと示し合わせてシカトするとかさ。ムチャクチャじゃね?」
「そうだなあ……」
ひとめぼれとかその手の概念をぶっ飛ばしそうな理論だが、被害者(?)の立場としてそうボヤきたくなる気持ちは分かる
一方で、卓のお相手の気持ちも分かる。可愛さあまって憎さ百倍とはよく言ったものだ。理解はできても同意はできないのだが
ただし、同意しかねるのはひとえに、自分がある程度大人になったからだろうとも思う。仮に自分がまだ子どもだったころに同じ立場に立ったとして、同じ行動をとらないでいられたかどうかは分からない。幸運にも自分はそんな事態に陥らずに済んだけれど
「その子はそういう方法でしか、自分の気持ちを切り替えることができないんだろうね」
「…………」
「もちろん、だからといって卓がそれをぜんぶ我慢しなきゃいけないわけじゃないよ。実際問題、困るよね。無視とか」
一瞬鋭くなった卓の眼光が、すぐさま穏やかなものに戻った。さらに言葉を重ねずとも、責め立てるつもりではないことがきちんと伝わっていると思ってよいだろう。鈴世はひそかにほっと胸をなでおろす
「……いちおう確認だけど、クラスで孤立してるとかはない?」
「男子は普通。女子は……シカトするのは一部だから、まあそれなり」
「みんな、事情を分かってる感じ?」
「おれからは何も言ってないけど、むこうの一派がギャーギャー騒いだことがあったから。なんとなく察してると思う」
「そっか。じゃあ……卓としては不本意だろうけど、普通に過ごすしかないかな。こういうのって、理屈じゃないし」
「だよね~~! あ~~、面倒くせえ~~~~!」
教師という職業柄ゆえか、いち生徒の立場としての現状把握も必要だと思った(場合によっては保護者への報告も)
さりげなさを装ったものの、事務的な問いかけになり過ぎていないか気がかりだったが、卓としては特に感じるものはなかったらしい。本日何度目かの「面倒」とともに、卓は床に大の字で転がった
「もう、さあ……。どっちにしても面倒くさくなるって、詰んでるじゃん。おれ、人間不信になりそう」
「いや、それは……。たまたまその子とかその子の周りがそういうタイプだっただけだから。人間不信になるのはまだ早いよ」
魔界人の口で「人間不信」とか言ってしまうと、それはそれでまた違う問題が発生しそうだが、それはさておき
「顔がいいとさ! こういう巻き込まれ事故ばっかりでいやんなってくるよね!」
「あっ……。卓って、そういうの自分で言っちゃうタイプ?」
「こんなこと鈴世にしか言わないし」
たぶんこの件について、卓は、家族の誰にも話していないのだろう。いちど口に出したら止まらなくなっただけなのかもしれないが、「面倒」のひとことで一蹴しているようでいて、その実ずっと溜め込んでいたのであろう胸のつかえを吐き出せているのであれば、何よりだと思った。意外と自分に自信があるということ(そしてそれは文句のつけようがない)まで口にし始めたのはご愛敬だ
「……。おれと鈴世って……似てるよね。顔」
「そうだね。親戚だしね」
この流れで全肯定するのは微妙な問題提起だったので、鈴世はあくまで事実のみを肯定するにとどめた
似ているといっても髪の色くらいだと思う。絨毯のうえをごろごろ転がりながら、こちらをじっと伺うまなざしは、完全に義兄の縮小コピーだ。そして幼少期の義兄の姿を知っている身として敢えて言うなら、それにほんのすこし気品が加わっているような気はする。その気品が、姉や自分からの遺伝とも思えないので、まさに王家の血統なのかもしれない。隔世遺伝とまで言ってしまうと義兄に怒られそうなので、ひたすら口をつぐむしかないけれど
「鈴世は、こういうことなかったの」
「ぼく? うーん、あったといえばあった……かな? ただ、ほとんどの人が最初からなるみとぼくをセットで見てくれてたから、そこまでは」
「ふうん」
口を尖らせ横になったまま、卓は、腰のあたりにほったらかされたクッションを引き寄せ、おもむろに顔の上に載せた。そしてなぜかそのまま話し出す
「好きな相手にふられたからって、嫌がらせするってのも、ちょっと違うと思うけどさ」
「そうだね」
「……ふられても、それでもずっと好きでいるっぽいのが分かるってのは……なかなかしんどいものがあるよね」
「うん?」
───話題が戻った? それとも、普通に過ごすと心がけたとしても、やはり気を遣うということを言いたいのか
それにしては、文脈にほんのすこし違和感がある。話の軸というか軌道が、違う方向にそれたように思えたのは、気のせいだろうか
「えっと……卓?」
ちょっと顔を見せて、もう一度ゆっくり話して。そんな乞いを拒否するかのように、鈴世が手を伸ばしたクッションを押さえ込む力は強かった。依然として表情を隠したまま、ぼそぼそと卓は続ける
「少なくとも、相手より先に生まれてこないと絶対勝てないじゃん……」
「え? いや、必ずしも年齢順ってわけじゃないだろうけど……」
「…………」
「…………」
「…………」
「……? 卓? おーい……」
そっとクッションを引き寄せると、今度はすんなりと動いた。それに連動して卓の手はゆるゆると床に落ちていく。しばらくじっと眺めていると、静かな寝息が規則正しく続いた
話題も展開も早いが、眠りに入るのもまた早い。いろいろ大人びているようで、やはり年相応の子どもなのだ
横になってから話した言葉のところどころに、若干の違和感───それまで話していた「お相手」とは別の誰かを想起しているような感覚を覚えたが、あれは単純に、眠気に負けつつあって言葉選びを間違えただけなのかもしれない
「……まあ、明日また訊けばいいか」
鈴世は肩をすくめつつ、卓を抱き上げ寝室へと運んだ
次の日は休日だったが、野球少年の朝はむしろ平日よりも早い
鈴世が目を覚ましたころ、卓はとっくに江藤家から去ってしまっていたので、このときの違和感について、鈴世が改めて卓に問う機会は訪れなかった
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