SUMMER BREEZE 02

 客足が一瞬途切れたタイミングで、卓は遅めの昼休憩に入った。ひと足先に休憩室にやって来ていた他の従業員と軽く挨拶を交わしながら、賄いの昼食を取り分け、空いている席に腰を下ろす。と、忙しさのあまり忘れていた空腹を思い出したのか、腹の虫が元気よく鳴いた

 卓がこのホテルでアルバイトを始めてから、早くも二週間が過ぎていた。仕事にも慣れ、ありがたいことに、他の従業員とも良好な関係を築くことができている。もっとも、業務はともかく人間関係については、卓の能力よりも、ここで働くことになった経緯によるところが大きいように思う。結論から言うと、同情票だ

 このホテルで卓が働くことになったのは、大学で懇意にしている先輩からの紹介されてのことだった
 開口一番、『学生向けで割のいいバイト、あるんだけど』。これだけ聞くと不穏な香りがするが、その実は、『地域名』『リゾート』をキーワードに調べれば、検索画面のトップに燦然と輝くホテルでの勤務。しかも、経営元は、その先輩の実家一族だという
 いかつい見た目に反し、実はイイトコの御曹司だという事実に慄きながら話を聞くと、その先輩もこの時期・客足が倍増する夏休みには、例年、働き手のひとりとして駆り出されているらしい
 いつもなら友人を数人誘うのだが、どこも人手不足で引く手あまた。ようやくの思いでひとり確保したのに、契約直前になって逃げられた。その穴埋めをお願いできないかと泣きつかれたのだった

 ────が。それは半分嘘だった。その先輩は現在、恋人とともに旅行中、より正確にいえば逃亡中である

 埋めたかったのは、友人ではなく自分が開ける予定の穴だったのだろう。ともに働くと言っていたはずの先輩は、勤務初日から行方知れず。携帯電話に一方的な謝罪のメッセージが届いて以降、卓からも何度か入れたメッセージには、現在に至るまでまったく反応がない
 詳細にわたって喧伝したわけではないが、いろいろ察したらしい従業員たちは、卓に対してそれはそれは親切にしてくれた

 とはいえ。最初こそ『してやられた』と思ったものの、嘘をつく是非はさておき、そうせざるを得なかった気持ちは理解できなくもない
 となりの棟の、贅を尽くした宿泊施設とは異なり、ここスパエリアは、若干カジュアルな、日帰りでの立ち寄りも可とする施設である。そのため、卓と同年代くらいの若年層カップルがなかなかの頻度でやって来る
 そのカップルたちの、人目を憚らぬイチャつきっぷりを日がな一日眺めていると、バイトなんてしている場合ではないという心持ちになっても仕方がない。ましてや、先輩とその恋人とは、最近ようやく念願叶って結ばれたばかりと聞いている。むしろ、この一連の逃亡劇のほうが、正しい行動のように思えてくる。同じく、最近ようやく念願叶って恋人と結ばれたばかりなのに、いま現在ここにいる自分よりも





『夏休みなんだけど……バイトしようかと思って』
『え?』

 先輩(の友人と思っていたのが実は本人)の穴埋めを依頼されたその足で、卓は魔界・ココの私室を訪れていた
 卓が魔界へ出向く機会はこのところ少なからずあったが、大学から直行するというのは珍しい。驚きながら卓を出迎えたココは、お茶とともにテーブルについてからも卓の表情をじっと伺い、ようやく切り出された言葉に、拍子抜けした顔を返した

『?? バイトは、いまもしてるでしょ?』
『いやごめん、それとは別。そっちは休みにして別の……住み込みバイトなんだけど』
『住み込み……』

 自宅から遠くの避暑地にあるホテルで働く、いわゆるリゾートバイトであること
 大学の、授業の選択や試験で世話になっている先輩からの紹介であること
 短期集中で(といっても夏休みの大半を取られるのだが)忙しい分、まとまった額の収入を得られること
 それらをざっくり説明すると、ココはにっこり笑って言ったのだった

『わかったわ。気をつけて、いってらっしゃい』
『へ?』

 これには卓が拍子抜けさせられる番だった
 正直なところ、日頃の義理返しおよび資金調達ができる点だけ見れば、件のバイトはまんざら悪い話ではない。特に後者については。ふたりで暮らす費用の目処は立っているものの、それは卓が継続的にバイト(今回とは別のもの)をする前提での皮算用だ。余裕を持てるならそれに越したことはない
 しかし、一定期間の遠征を要する点は、それらのメリットを一気にマイナスに振り切らせる

 高校の長期休暇は、部活と受験勉強でほぼ潰れた。晴れて大学に入学し、目の前に開けたのは、はじめて恋人同士で心穏やかに過ごす夏休み。そんなもん、心も身体もウキウキワクワク、いろんな意味で爆上がりに決まっている
 にも拘らず、肝心のココはこの反応だ
 攻めた水着を買ってみたりその他もろもろ、浮かれていたのは自分だけだったということなのか

 そもそも卓がいまここに急いでやってきたのも、水着を着る機会が、すこし前に約束した水泳を教える話が、バイトの話を受けることで後延ばしになってしまうからだ
 もしココが、それを嫌だというなら、当然、最優先で──

『あっ、もしかして! 泳ぎを教えてくれるって約束を気にして、急いで来てくれたの?』
『あ、ああ……。気にして、っていうか』
『ありがとう。その気持ちだけで充分よ』
『…………』

 先手を打たれたうえに、そんなことで心からうれしそうに微笑まれてしまったら、もうなにも言えない
 せめて自分以外の誰かに、先に水着姿を披露することのないように などと、おちゃらけながら釘を刺すのが関の山だった





 引き止められたかったわけではない。だが、ノータイムで「いってらっしゃい」とはどういう了見なのか。受け入れるにしてもせめて1ターン、『約束してたのに!』『うん、ホントにごめん! でも埋め合わせはするから』『えー、ホントに~? もう、仕方ないなあ……』的な、甘ったるいやりとりがあってしかるべきなのでは?

 ────と。当時の心境を今になってようやく言語化できているが、その日は、なんとも言えないモヤモヤを抱えたまま帰路につき……結局、その翌日には先輩に了承の返事をした
 その後もココからは何ら言及はなく、卓からも何も言えず、現在に至る
 すこし前の、言葉を悪い方向に受け取ってぶつかり合っていたころが懐かしく思えるほどだった

 もっとも、不毛なぶつかり合いに終始していたのは、ひとえに、自分がもたもたしていたせい。これに尽きる。もしかしたら、ココ本来の性格はあんな、穏やかな感じなのかもしれない。なんだかんだいってもやはり大人の女性だ。自分という魚が、優しく泳がされているような心地よさを感じる瞬間が、確実にあった。そしてそれは同時に、自分はまだまだなのだと思わされる瞬間でもある。ただし、それもこれもすべて、今になってようやく気づいたことだ

 家を出て、ふたりで暮らしたい──そのココロは。『いままで』無駄にしてしまったふたりの時間を取り戻したいというのは半分建前で、本当の理由は、『これから』ココを自分に繋ぎ止めておくための既成事実が欲しかったからだ

 ココのことを、知れば知るほど好きになる。そして、その魅力を嗅ぎつけるのは、きっと卓ばかりではない。花も盛りのその美しさも相俟って、横から掻っ攫おうとする者がいつ現れても不思議ではない。いままで奇跡的に現れなかっただけで、卓よりもココに似つかわしい相手が、今後、突然現れるかもしれない。一瞬たりとも気が抜けない。ココが恋人とひとつ屋根の下で暮らしているという事実があれば、そういった輩にとって、幾分かの牽制効果もあるだろう
 そう思いついたが最後、ふたり暮らしに向けて突っ走るしかなくなってしまった。あわよくば、ふたり暮らしのために頑張る自分を見てくれ! と言外に主張しているのが、いやらしい。ココが何も言わない・言ってくれないと気に病みながらも、自分はこんな激重感情をひた隠しにしているのだからタチが悪い。自覚は大いにある

 それでも、ふと冷静になったときに思ったりもする。ふたりで暮らすのは諦め、このまま実家で世話になりながら過ごせば、ココとの逢瀬もバイトも大学も生活も、すべてそれなり・中の上あたりを、実はうまく進むのではないかと。『これから』にばかり焦点を絞り、『いま』をないがしろにするのは、果たしてアリなのかと
 あれもこれも全力でいくのは無理なのだから、力の抜きどころを踏まえるのが、大人になるということなのかもしれない。ここに来る直前、よりによって愛良に投げつけられた言葉が、今になってじわじわと効いてきている

「なにやってんだかなあ……」

 何とはなしに見た腕時計が示すのは、休憩時間の終了時刻の十分前だった
 卓は、すっかりぬるくなってしまった水を一気に飲み干し、休憩室を後にした



→ 挿話