そこに足を踏み込んだ瞬間、目の前いちめんに立ち込めるもやもやの霧
「───あ」
あてもなくとぼとぼと歩くその先に、少しずつぼんやりと人影が浮かびあがって
思わず愛良はその足を速める
現実のそれとは違い、なんともふわふわとした足触りによろけそうになりながら
たどり着いたそこに立っていたのは
「あれ」
「!!」
開陸、ではなく
大きな手を伸ばし、いちど愛良の肩に触れてみて
その手と愛良とを交互に見比べながら驚いたような声を上げる
「愛良………。ていうか、なんだってリアルな夢だな、これ……」
「ち…違うの、新庄さん。リアルなっていうか…。あたし、夢の中に忍び込んで……」
「へ?」
「───と、いうわけで
もしかしたら、夢の中でなら開陸と直接話すことができるかなって思って、来てみたんです」
「ふうん………」
「けど、やっぱり駄目みたい。開陸の心はもっとずっと奥のほうにいっちゃった、ってことなのかなあ……」
「…………」
ずっと奥に行ってしまった といえば聞こえはいいが
早く言えば、その姿を見せることを拒んでしまっているこの状況
そしてそれは自分のせいなのだ、と改めて愛良は思う
悪気がないつもりでも、ふと自分の口をついて出た言葉のひとつひとつに
開陸がどんな気持ちで耳を傾けていたのか
気づいた頃には遅すぎたということなのか
ここで駄目ならどうすればいいのか
せっかく見えてきた筈のひとすじの光が、みるみるうちに消えていくような気がして
少しずつ愛良の心境も暗く重くよどんでいく
「うまく言えないけど………」
「え?」
隣に腰かけて愛良の説明を聞いていた彬水が、自分の左胸を指差す
「昼間…ていうか起きている間のことなんだけど
胸の中のほんの一部だけ、うんともすんともいわない部分があったっつうか……
きっとそれが開陸ってヤツの部分なんじゃないか、と、思う」
「え……! そ、そういうのって、わかっちゃうものなの……?」
「ん? ……まあ、おれも昼間の話を聞いて、なんとなくそう思ったってだけなんだけど
とりあえず、その、開陸ってヤツ…姿を見せたくないってわけじゃないんじゃないかと」
「え………」
「夢の中でも、やっぱりふたりでひとりってことじゃねえ?
……その証拠、というかなんていうか…今はそのうんともすんともいわなかった部分が調子いいし」
「……………っっ…!」
「多分こいつ………おれを通しておまえの言うこと聴いてるぜ
さっきから心臓が妙にバクバク言ってるしさ」
「新庄さん………!」
思わず愛良はその胸の中に飛び込む
本当に、そうだったらいい
いや、そうなのかもしれない そう思える力がなぜかその言葉にはあって
今に限らず、彼がいつも自分に与えてくれた
父親をうっすらと思い起こさせるような安心感に
ぐいぐいと惹かれていったことを思い出す
ぼろぼろとこぼれてくる涙もそのままに、愛良は彬水の胸で泣き続けて───
「………愛良」
その間、黙ってずっと愛良の髪を撫でていた彬水が、呟くように呼びかける
返事の替わりに顔をあげ、目を拭う。その目に映るのは、先刻までよりももう少し、緊張感を帯びた顔
「おまえは、どっちがいい……?」
「!」
どっちが───こちらか、あちらか
字面だけみればあいまいなその言葉が、今、指し示すものといえば他でもなく
「し……新庄さ………」
「………この訊きかたは卑怯だな。悪い」
「………………」
「まあ…こいつも、おれだし…っていうか何ていうか……」
「………え」
「おれは、あとからできた人格だからな」
髪を撫でるその指の動きをとめることなく
彬水はただ静かに微笑む
その、選択の意味を
ただの一度も思い起こさなかったというと、嘘になる
水を被り湯を被り、もとの体ともうひとつ、都度その姿を変えた体が
もうひとつの姿でその変化を止めた
もとの姿に戻って欲しい そう思うということはすなわち
もうひとつの姿を消すということ
その変化が
姿だけでなく、意識も心も含んでいるのだとしたら
もとの姿に戻って欲しい そう思うということはすなわち
もうひとつの姿ばかりでなく、意識も心も全てを消すということ
目の前にいるのは、その、もうひとつの姿のひと
「───! や…やだっ! そんなの、やだよ! 新庄さん!」
「やだ、って……。おい、愛良………」
「新庄さんが消えちゃうなんて、やだ! だって折角また逢えたのに……っっ」
「…………」
パジャマの袖を掴み、がくがくと揺さぶる愛良の瞳をまっすぐに見つめながら
彬水は、微笑を浮かべたまま諭すような口調で決定的なひとことを口にする
「おまえが言うところの“ふたりがふたりじゃなく、ひとり”ってのは
とどのつまりはそういうことなんだよ」
「!!」
「別におまえを責めたいわけじゃない……ていうか、おまえも本当はちゃんと判ってるだろう?」
「し……新庄さ………」
そうなのだ
そんなこと、本当はここに来た瞬間から判っていた
開陸にもう一度会ってあやまりたい それは
水を被り湯を被りその姿をくるくると変える体に戻って欲しい という意味ではなかったのだから
けれどその“理解”は、頭だけ・理屈だけの“理解”でしかなく
ふたりでひとりとしか思えないふたりが
ひとりの姿でしかあり得ないということの本質的な意味を理解していなかった
或いは、目を向けようとしなかったというべきか
「それに…繰り返すけど、おれはこいつでもあるわけだから、消えるってわけじゃねえし
………おれはずっとおまえのなかにいるだろ?」
「………………っっ」
「おまえがおれを忘れないでいてくれるなら、それでいいよ」
「…し……んじょ……さ………」
「……………」
再び溢れ出した涙を押さえる両手を、ゆっくり目元から離して
自分を呼んだ形のまま半開きになった唇に、彬水は自分の唇を重ねる
現実の世界からやってきた愛良はともかく
夢の中の住人であるはずの今の自分自身にも、妙に質感があることに驚きながら丹念に舌を絡めて
顔を離してもしばらくかちこちに固まったままの愛良の肩を見、思わず吹き出しそうになる
「こいつには内緒な。…まあ、見えてるかもしれねえけど」
「う………」
にやりと微笑んで、彬水は少しだけ乱暴に愛良を胸元に引き寄せる
「おまえは大丈夫だよ。こいつも…おれも、ずっとそばにいるし」
「………ん………」
「こいつも……別に、おれに頼らなくても十分大丈夫な筈なんだよ」
「………………」
「でも、それを判らせるのはおれの力じゃ無理なようだ」
「新庄さん………」
見上げたその顔は、やはり笑顔だった
「(愛良……大丈夫かしら……)」
もくもくと天井に広がる雲のような物体を見上げながら、蘭世は小声で呟いた
目の前に横たわる開陸(というか彬水というか)は、特に目を覚ましそうなふうでもないし
うなされているようでもないので、大丈夫だろうとは思うのだが
愛良が夢の中に飛び込んでから、すでに一時間以上が経とうとしている
もしかしたら、様子を見に行ったほうがいいのかしら
そんなことを思った矢先に、それは起こった
「か……開陸くん!?」
横たわる開陸の体を、思わず目を覆いたくなるほどの強い光が包み込む
突然広がったその光は、額から湧き出た夢の雲も明るく照らし
それに溶かされでもしたかのように、雲は明らかにその大きさを変えていく
「や…やだっ。愛良………!」
「おかあさんっ! ただいま!!」
焦る蘭世が雲に駆け寄ろうとしたのと、だんだん小さくなっていく雲の入り口から愛良が飛び出してきたのはほぼ同時で
夢の中でのいきさつを尋ねるべく蘭世が口を開きかけたのと、愛良が開陸の眠るベッドを振り向いたのと
光と雲が消えたのもほぼ同時
「…………あ……」
むっくりとベッドから起き上がり、少し長めの袖をもてあましながらこちらを見ているそのひとは
まぎれもない、もとどおりの開陸で
蘭世は思わず声を上げ、
愛良は駆け寄り、その身を確かめるように抱き締めた
「ごめん…ごめんね、開陸……」
「……ん……」
水平線が揺れることがあったとしても
もう、そのバランスを崩すことはないのだと
言葉にせずとも、今、確かに感じながら
開陸は静かに目を閉じた
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