目を瞑っていても辿り着けるんじゃないかというくらい何度も往復したこの道を、蘭世は気に入っていた
行きは、今頃彼は、バイトにいそしみつつ、ちょっぴり空き始めたお腹をさすり始める頃だろうかと想像して
帰りには、今日のおかずは気に入ってくれるかな、やっぱり卵焼きがいちばんかな
どんな顔で食べてくれるのかなと思わず笑みをこぼしつつ
心が彼でいっぱいになり、ほかほかの気持ちになれるからだ
───そう、いつもの自分なら
昨日に続き、今日もなんだか気も足も重い
とはいえ、このお弁当は、彼にとっての貴重なライフラインであると同時に、彼と自分とのつながりでもある
妙に意識してしまうからといって、じゃあやめますと簡単には言えなかった。いや、言いたくなかった
だから今日も蘭世は、いつもとほぼ同じ時間にこの道を歩いている
もちろん今日のおかずも自信アリの逸品ばかりだ
すっかり暗くなり人気のない住宅地に、かつん、かつんと階段を昇る足音が響く
相変わらず表札すら出していない、彼の部屋のドア
その脇に申し訳程度に備え付けられた粗末な郵便受けに、大事に抱えてきたお弁当箱を預け
くるりと踵を返したその瞬間、蘭世はなにかにその身を羽交い絞めにされた
「………………!!」
がっしりと押さえられ、身動きすらとれない
突然であることと、恐怖とで、体が固まってしまったせいもある
真っ暗なところに引きずられ、押さえる腕に込められていた力がふっとゆるんだのを感じ取った瞬間
ようやく蘭世は悲鳴を上げることができた
「……っいやああああああああああっ!!」
「うわ」
動くようになった手足をばたつかせて逃れようとする蘭世を
相手は、自分の体ごと壁にぎゅっと押し付ける
ざらざらと石壁を伝う小さな音がしたのち、真っ暗だったそこにふと明かりがともった
周りに目をやると、そこは今まで数回足を踏み入れたことのある、見覚えのある空間で
蘭世を押さえる、その腕の主は
「そ……そんなに驚くなっ」
「!! ま、真壁く……!?」
蘭世がそれを認識した瞬間、俊はふと腕の力をゆるめ、蘭世の体を反転し、自分と向かい合わせる
両手は蘭世の肩のすぐそばに、壁を押さえるようにして添えられたままだ
「な、なんで居るの!?」
「なんでって……あのなあ。おれん家だ、ここはっ」
「そうじゃなくて……っっ。バ、バイトは!?」
「今日は休み」
「ええ!?」
正確に言うと、“自主的な”休みだった
こんな暴漢まがいの捕獲方法の是非はさておくとして、人目を気にせずゆっくり話したかったし
いかんせん、彼女に避けられるという事態への耐性がない俊にとって
ここまであからさまに避けられていると認識してしまった以上
また、つい先刻の自分の裏目っぷりを思い起こす以上
このまま何もせずに次の日を迎えるのは、精神的に限界だったから
とはいえ、今の蘭世にとって彼は、ある意味暴漢よりもタチが悪い
学校から帰ったままなのだろう。彼は制服姿のままだった
あのときとは違い、きちんとボタンははめられているものの
何かからかばうかのように壁に手を突いた彼との、あまりに近い距離に、頭がくらくらする
蘭世は無意識に、自分自身を抱きしめ───その瞬間、服地に触れた指の端がちくりと痛んだ
「………痛っ……」
「え?」
部屋に引き込まれたとき、どこかに擦ってしまったらしい
人差し指と中指の節近くに、数本の薄いかすり傷が赤く走っている
「あ………」
「うわ、さっきやっちまったのか……。悪い」
「う、ううん。だいじょう………」
蘭世の返答を待たず俊は、覗き込んでいたその手を軽く握った
そしてその手を引き、おもむろに唇を寄せる
「ひ………ぃやあっっ!!」
「え」
思わず蘭世は、力まかせに手を引く
つい自然に行ってしまったその動作を真っ向から拒絶し、怯えたように自分を凝視するその姿を見て
俊は、蘭世がいつもの彼女とは少し様子が違っていたのだということを改めて思い知らされた
壁に突いていた手を、静かに蘭世の肩に添える
その瞬間、その肩がぴくんと震えるのが判った
それに気づかないふりをして、もう一方の手も同様に添え、ほんの少し力を込めると
震えは全身へと広がった
それ以上に震える声で、蘭世は呻くように言う
「は、はなし…………っっ」
「………どうせ、離したらまたさっさと逃げちまうんだろ」
「〜〜〜〜〜〜〜っっ……!!」
───また、この表情だ
泣きそうな、けれどそれを懸命にこらえながらこちらをじっと見つめる
その瞳が湛えるのは、自分を責める色ではなく、一切の拒絶
いっそ泣きながら責めたててくれたほうが、楽になれるかもしれない
他のなによりも彼女の涙に弱いくせに、このときばかりは心の底からそう思った
それくらい俊自身、追い詰められていたのだ
「いったいなんなんだよ、昨日から!」
「!!」
「…………あ」
思った以上に荒げてしまった声に、蘭世の体がこわばる
もやもや、苛々していたのは本当のことだけれど
その原因が知りたいだけであって、彼女に対してこんな言い方をしたいわけではないのに
ふるふるとかぶりを振り、ふうっとひと息
いつの間にかぐっと力を込めていた、蘭世の肩を掴む手の力をゆるめて
俊は深く頭を垂れた
「え………………」
「……すまない……」
「……ま……真壁くん……?」
「…………気に触るようなことをしたなら……謝る、から」
「!?」
「………頼む、教えて欲しい………」
「………………」
深く垂れた頭の向こうで、重苦しい沈黙を感じる
逆に言えば、それだけ自分は彼女に対し、知らず知らずのうちにだとはいえ
なんらかの苦痛を強いていたということなのだろう
頭では判っていたつもりでも、それを実感するのとは、やはり話が別
どしりと圧し掛かる自己嫌悪に泣きそうになりつつ、恐る恐る顔をあげると
蘭世は、“泣きそう”どころか、あとからあとから豪快に涙をこぼしていた
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