できることなら、顔を合わせなくて済むような
“受動的”、或いは、“なしくずし的”な理由が欲しい、こんなときに限って
頼りの委員会は早々と───もちろんそれなりの時刻ではあるのだが───切り上げられてしまった
「素通りするわけには……いかない、よ、ねえ……」
例のごとく部室には明かりが灯っていて
けれど、皆が揃っているかといえばとても微妙な時間帯
蘭世の口元からこぼれたのは、こんな、誰かに問い掛けるかのような
誰かにその責任を求めるかのような、ひとりごと
周りも委員会のことを知っている以上、そのまま帰ってしまってもなんら問題はないのだ
日頃の真面目さ・誠実さも手伝い、彼女を疑う者もいないのだし
それ以前にそもそも部活動は義務ではない
それでもまっすぐ帰るのをためらってしまうのは
顔を合わせたくない筈の相手に、やっぱり会いたいと思っている自分が確かに存在するから
それまで一緒に食べていた昼食を、ひとりで食べることにした
表向きの理由として伝えた自分の言葉を、彼はまっすぐ捉えてくれたのだろうと思う
ふっと微笑み、がんばれよ、と言ってくれた
だというのに、自分は
あの避け方は、我ながら露骨すぎたなと思う
けれどそれはあくまで“ほどよく頭が冷え始めてきた今にして思えば”の話だ
ほんの少しでも触れたりしたら、今の自分のもやもやした気持ちが伝わってしまうかもしれない
あのときは、本気でそう思ってしまったのだ
無闇に心を読まないこと いつからか暗黙の了解事項となったその戒めを
彼が破ることはないと信じているけれど
そんな約束とは別次元で───それすらも飛び越えて、伝わってしまうのではないかと
とはいえそんな理屈は、通じるのは自分だけの勝手な言い分でしかない
無闇に読まない それならば尚更、あの時の自分の対応は異質なものとして彼の目に映ったに違いない
普段どおりに接することができず、その理由の申しひらきもできないくせに
誤解されたくもないだなんて、あまりに虫がよすぎる話かもしれないけれど
それだけは避けたかった
彼を想う気持ちは変わらないのだから
だからこそ、本当はちょっとでも会いたいと思ってしまっているのだから
部室の目の前で、深く息を吸って、はいて
極力さりげなさを装いドアを開けると、やはりそこにいたのは彼ひとりのみ
抑え気味にしたものの、ドアが立ててしまった音に気づき、彼は
トレーニングの手を止めこちらを振り返り、笑った
「今、終わったのか」
「あ! う、うん……」
その声音は、昼間の“がんばれよ”と同様、とてもやさしく響いた
そしてそのいでたちは、昨日のそれとは異なり、Tシャツにジャージを穿いた無難(?)な姿
汗がしみて、そこだけ色が変わっている胸元に目をやりつつ、蘭世は思わず、二重の意味でほっと息をつく
「………………」
「ま……、っ真壁くんは、まだ、やっていくんだよ、ね……」
「……………。ああ……ちょうど体がのってきたところだから、先帰ってくれ。悪いな」
「う、うんっっ」
と、俊は、額に浮いた汗を腕で拭おうとして
腕は腕でいい感じに湿っていることに気づき、一瞬顔をしかめ
ロープに掛けてあったタオルをずるずると引っ張り、顔全体を押し包んだ
黙って立っているだけで、人を射抜いてしまえそうなほどの隙のなさに
未だ、時たま見惚れてしまうほどだというのに
意外にものぐさだったりするのがかわいいと思う
けれど
「あ……あの、がんばってね。あと、夜、お弁当置いとくから……。食べてね」
「…………サンキュ」
「さよならっ。またあした、ね」
無言でニッと笑いながら、俊は軽く手を振り返す
蘭世は、持ちうるすべての精神力を目元口元に集中させ、せいいっぱいの笑顔を作り
部室のドアをぱたりと閉じた
───閉じて、そのままドアに静かにもたれかかる
「……(はあ…………)……」
息を潜めつつも思わず漏れた、自分のため息が重苦しい
たとえば、シャツの裾をぱたぱたと仰ぎ風を取り込むその拍子に、臍がちらりと覗いたりするのなんて
見慣れていたつもりだし、平気だったはずなのに
今日に限ってはどうしても、昨日、目の前に唐突に差し出された光景がちらつき
先に帰るよう促す彼の言葉に、ほっと安堵してしまった
本当にどうしてしまったんだろう、自分は
そんなことを思いながらも、その理由は、他でもない自分がいちばんよく判っている
彼は男で、自分は女。“男の子”“女の子”と呼ぶには面映ゆい、けれど他に適当な呼び名もない
そんな不安定な年齢の、恋人と呼び合っても許されるであろう間柄
ふたりきりになれば、指を絡めたりもするし、唇を重ねてみたりもする
けれど、行為として実現しているのは、今のところそこまでだ
彼はどうなのか判らないけれど、こと、自分に関しては
世の、他の恋人たちがそういった行為を踏んだうえで、さらにどういった状況に及んでいるのか
人づてで耳にする程度の知識ではあるが、知っている
知ったうえで、けれど自分たちの場合は“いつか”、“彼がそう望んだときに”そうなるんだろうなと
おぼろげながらに思っていた
指を絡めるときも、唇を重ねるときも、彼はとてもやさしい。そして心から安心しきったような表情を見せてくれる
その次に及ぼうとする素振りなど、微塵も覗かせず
なのに自分はあのとき、肌蹴たシャツのすきまから覗いた肌を目の当たりにしただけで
───彼が望んだときに来るはずだった“いつか”を
自発的に、ずっと近くに感じてしまった
それを認めてしまうのも、知られてしまうのも、耐えられないのだ
待つ身であるべきなのに、そんな
好きな気持ちは変わらないけれど
果たして自分は、変に意識せずに彼と接していられた頃に戻れるのだろうか
記憶を消す能力があるのなら、今この瞬間の自分の記憶だけを消してくれたらいいのに などと
見当違いな願いを胸のうちで八つ当たり気味に唱えつつ、蘭世は家路をとぼとぼと歩いていった
一方、誰もいない部室に残された“彼”の方はといえば
「…………………」
渾身の力を込めて作り上げたひきつり笑い(とはいえ、今日の彼女がそれに気づいたかどうかは判らない)と
ぴらぴらと振った、行き場所のなくなってしまった手とを固めたまま
ずるずると床に座り込んでしまった
…………今、ホッとしてなかったか?
“今”というのは、自分が彼女に対して先に帰るよう勧めたその瞬間だ
昨日と違い、まだシャワーを浴びてもいない状態だったから、少し待たせることになるかもしれないけれど
昨日の帰り際と昼間のアレと、難解極まりない謎が解けぬままだったから
できれば一緒に帰りつつ、その理由を尋ねてみたいと思っていたというのに
思わぬ先手がきた
“真壁くんは、まだ、やっていくんだよね?”
そう言われてしまったら、自分としてはああ返すしかなく
返してみたところ、まんまと。心から安心しきったようなあの表情だ
その衝撃は、これ以上ないほどどしりと胸に圧し掛かった
こんなことならさっさと着替えておけばよかった
けれど、しっかり着替え、あとは帰るだけの状態で陣取り
きっと今日も部室へ立ち寄るのであろう彼女を待ち受けるというのもどうなんだろう
そうぐだぐだと悩みながら、結局、着替えるのをやめた
───さりげなさを尊重するつもりが、またしても、見事に裏目に出た
自分とはまったく異なる彼女の反応に怯えつつ、いま一歩を踏み込めないでいる自分も悪いのだが
ここまでくると、もしかするとこれは誰かの陰謀なのではないかという気すらしてくる
たとえば、昨日よりもだいぶ早く終わってしまったという、彼女の出席する委員会の会議とか
「……………おれも、帰ろ……」
決してトレーニングのせいだけではなく、ひどく疲れてしまった体をひきずるようにして
俊はのろのろと帰り支度を始めた
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