・文目(あやめ)も知らぬ恋: 物の道理の区別もつかなくなるほどに夢中の恋。


* * * * *







「(───と……)」

うまく過去へとやってこれた、らしい
こっそりと背後を通り抜けたときに盗み見たメヴィウスの表情からは、まだそれを実感することができなかった
(数百年前から同じ顔をしていたのではないかと思われるからだ)が
目的地である江藤家のキッチンに忍び込み、ようやく俊はそれを確信した

リビングの隅で、まだ幼い魔界の王が、グラス片手になにやらこそこそと言い争いをしている様子を
身を潜め、気配を消しながら伺う
彼がもう一方の手に握り締めている小瓶こそ、諸悪の根源なのだろう
俊がそう認識するが早いか、めずらしく常識的な意見を具申する側近の振る舞いもむなしく
秘薬入りのシャンパンは、蘭世の、頭から豪快にぶっかけられた

余計なおまけもついてはいたものの、自分で招いておきながら、急かすように帰す彼女の豹変ぶりに戸惑いつつ
過去の自分は他の面々とともに帰っていく。───なんて使えない男なのか
歯噛みする俊の心情に呼応するかのように、外では静かに雨が降り出した







踏み込みたい衝動をすんでのところで抑え、ドアの隙間から中を覗く
何事もなかったかのようにふたりは、向かい合って座り、妙にねっとりとした空気を作り上げていた

「蘭世……ぼくのこと、好きかい?」
「……ええ……。誰よりも愛しているわ、アロン」
「(………………)」

こちらに背を向け座った彼女の表情を、見て取れはしなかったけれど
甘くとろけてしまいそうな声音から、なんとなく想像はつく
決して彼女の本意ではないのだと、頭では判っているつもりでも
そんな姿で他の男に愛を語る言葉を耳にするのは、想像以上につらいことだった
自分にとって、彼女の言葉のひとつひとつがどんなに重い位置を占めているのか、改めて思い知らされる

対し、それを言わしめた張本人はかなりのご満悦で
にこにこと満面の笑みを浮かべながら、蘭世の肩に手を置いた

「つめたっ。……あ、そうか。薬……じゃなかった、シャンパンをかぶっちゃったんだしなあ。服、着替えなきゃねぇ……」
「………………ん……」
「ていうか……脱いじゃおうか?」
「(………………!!)」

アロンの言葉に蘭世は、無言のままこくりと頷いて応える
満面の笑みを邪気の帯びた笑みへと一変させ、アロンは、蘭世を抱きかかえるようにして、腰のあたりにゆっくり手を伸ばした
彼女が身に着けているのは、ニットのワンピース
アロンの動作を助けるように、彼女は心持ち腰を浮かせる



全身の血が逆流するというのは、まさしく今の自分のような状態を示すのかもしれない
アロンの手が、彼女に触れるか触れないかその瞬間、空が割れた

鋭い閃光が宙を走り、次いで、激しく窓を叩きつける雨と、大地を揺るがすような轟音が江藤家を襲う
雷がそれほど苦手ではない俊も、これには反射的に耳を塞ぎ───同時に気づく

この雨も稲妻も
もしかしなくてもきっと、自分のせいだ

過去を変えてしまうのは、ご法度。そんな戒めが胸をよぎる
けれどそんなことを気にしていられないほど、───自分でもどうにもならないほど
強大な力は勝手に流れていき、空を荒れ狂わせる
これは、まずい。そう頭ではちゃんと判っているのに、制御できない。ますます雨足は強くなっていく



「…………っ」
「あわわわ」
「(…………?)」

何よりも苦手とする雷鳴におののき、ぴくりと蘭世の肩が震えた
その意を操ることはできても、本質的な部分を変える───恐怖心まで拭い去る───ことまではできないということだろうか
アロンは、それまでの余裕を失い、慌てた様子で自身のポケットを探った

「ああもう、正気に戻っちゃうよ……今日はこれくらいにしとこうかな……残念
はい蘭世、これ飲んで」
「ん…………」
「こわくないよ〜……よく眠れるからね」

と、テーブルに残っていたシャンパンに、取り出した小瓶から何かを大量に振り入れ
蘭世に、なかば無理矢理飲み込ませた
先刻の小瓶とは液体の色が違う。彼の言葉尻から察するに、眠り薬かなにかといったところだろう
──────そんな物騒なものを、まだ隠してやがったのか。俊は思わず舌打ちをした







いつどんなタイミングで正気に戻っちゃうか、わからないからなあ───そんな小ずるい思念とともにアロンは
意識も朦朧とした様子の蘭世を彼女の部屋へと連れて行き、ベッドに座らせると
そのまま、自室へ去っていってしまった
後をつけ、例のごとくドアの隙間から自分を見つめている俊の気配にも気づくことなく
蘭世はそのままくたりと倒れ込む

「………………」

数十秒、部屋の空気に動きがないことを確認したのち、俊はその部屋へと身を滑らせる
そうっと顔を覗き込むと、薬の効果が絶大だったのか、少しずつ落ち着きを取り戻してはいるものの
未だ部屋を揺らす嵐もものともせず、彼女はゆっくりと深い寝息を立てていた

乱れた髪を直そうと触れた指先が、べとつく
白いニットの胸元には、うっすらとしみができてしまっている

「…………。つうか、着替えはさせてやれよ……」

直前に、その動機はともかくとして、彼女を着替えさせようとした瞬間の自分を棚に上げ、俊は小さくぼやいた
箪笥を漁り、適当にパジャマを見つくろおうとして、俊は再び自分の行動の迂闊さに気づく



過去を変えてしまうのは、ご法度。そう戒められているのは
たとえわずかばかりの変化だとしても、そこで生じたひずみが、後々になって
多大なる影響を及ぼしてしまうかもしれないからだ

───けれど
自分以外の誰ひとりとしてそれを知らなければ、“過去を変えた”ことにはならないのではないか?



“毒を食らわば皿まで”とはよく言ったものだ
自分がこの嵐を起こしたことを認識してしまった今、胸に浮かぶのは、そんな都合のよい解釈ばかりで
もはや自分の行動を改める気にはなれなかった
だいたい、こんな姿のまま彼女を放置するのは、あまりにも不憫だ

いや、それもまた自分自身に対する言い訳でしかないのだろう
肩におでこをもたれかけさせ、ゆるゆるとワンピースの裾をたくし上げる
そこから覗く肌の割合が増えていくにつれて、鼓動は早く強くなる
自分の本音を、なによりもそれが正直に映し出している
単純に、見てみたいのだ。自分の知らない、まだ少女の頃の彼女のありのままの姿を

「………………」

息を呑んだ音があまりにも大きく響いて、俊は自分の口元を押さえる
だいぶ見慣れてきたつもりでも、彼女の衣服を解いた直後の高揚感は未だ変わらない
幼女趣味は持ち合わせていないものの、目の前で無防備に横たわるのもまた
今も昔もただひとり焦がれた女───彼女なのだ。その威力もまた、破壊的だった
背を支えた手のひらに伝わってくる、しっとりとした肌の感触も

これ以上見続けるのも触れ続けるのも、いろんな意味でまずい
おぼつかない手つきでパジャマを着せ、横たわった肩まですっぽりと包み込むように布団をかけてやり
ひと息ついて───なんだかひどく疲れてしまった

こちらの心境も知らず(知られても困るのだが)、すやすやと眠り続ける寝息を聞きながら
果たして自分はこのまま彼女を置いていってしまってもよいものなのか そう思った
今この時点から遠い未来にいる筈の自分が、ふたりに何もなかったのだと確信があるのだから
このまま帰ってしまっても、なんの問題もないのかもしれない
けれど、今自分がここで何らかの策を講じたからこそ、なんの問題も起こらないのかもしれない
突き詰めれば突き詰めるほど錯綜するパラドックス
答えを求めつつ彼女の思念を辿ると、他の家族は明日にも帰ってくる模様
二人きりでないのであれば、アロンもきっとそこまで無体なことはできないだろう

「…………ん」
「!!」

それでも万が一のため、簡単に術でもかけておくべきだろうか。そう思った瞬間
不意に打たれた寝返りに、口から心臓が飛び出そうになる
息を殺して覗き込むと、特に目を覚ます様子でもなく、再び規則正しい寝息を立て始めた

今とあまり変わらないその寝顔を眺めていると
絶対に認めることはできないものの、薬を使ってまで自分のものにしようと思った気持ちが
なんとなくわかるような気がした
というよりもむしろ、過去の自分はよくもまああんな、頑ななまでに我慢できたものだ
その反動なのかもしれない。互いの想いを確認しあい、もう離れることはないと思える状況にあっても
何をしていても常に彼女のことを思い、飽きることなく彼女を抱く。満たされてもなお恋をしているような今の自分は

薄く開いた唇に、耐え切れずにそっと唇を重ねる
むくむくと邪な情欲が首をもたげさせる前にすぐさま離れ、他の誰も彼女に触れることができないよう
かつ、通りすがりにアロンの部屋へ立ち寄り、次の夜まで眠り続けるよう、それぞれ念を込め
俊は地下室へと下り、この時代へと自分を導いてくれた扉へとその身を急がせた





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