・懸想だつ:恋心が表面に現れる。色恋めく。


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実は厄日だったんだろうか。さっき歩いてきたばかりの道を真逆の方向に歩きながら、卓は思った
プレゼントがあるから、こっそり江藤家に来ておくれ そんな祖父の呼びかけに応じ
いそいそ出かけてしまった自分のおじいちゃん子ぶりが、今ばかりは悔やまれる。その結果がさっきのアレだ

今日は誕生日。……だけではなく、バレンタイン・デーとかいう日でもある
客間のドアを開けた瞬間、卓の視界に飛び込んできたのは
それっぽい包みを手にしながらにこにこ微笑む鈴世と、微妙に頬を染めたりしながらやっぱり微笑むココの姿
まともに直視できたのは、ほんの数十秒程度だったけれど、卓の視線は視界右側に釘付けになった
ああ、あんな笑い方もするのだと。───正確には、自分以外の相手に対してなら、あんな笑顔を向けられるのだ、と

いつのころからか、多分きっと、約束どおり髪が元の長さに伸びたころから
ココは自分に対して、あまり笑いかけなくなっていた
受験やらなにやらが重なり、会う機会自体が極端に少なくなっていたというのもあるかもしれないけれど
その少ない機会でさえ、顔を合わせれば互いにぎこちなく、最終的にはケンカ腰
よっぽど相性が悪いということなのか、それとも他に要因があるのか。それすら判らないままずるずると時は過ぎ、今に至る
きっと今日がどんな日なのかなんて、彼女は気づいてもいないに違いない

とはいえ、あんなふうに笑いかけられたら笑いかけられたで、困るというのも正直なところ
いや、困ると言ってしまうと語弊があるかもしれない
その笑顔を、果たして自分が受けとめてしまってよいものなのか、そして
果たして自分はさらにそれ以上の部分まで踏み込んでしまってよいものなのか、迷うのだ

贔屓目を抜きにしても、彼女は、花も盛りの美しさ
いささか頼りないものの、弟がいるおかげで、彼女自身に余計な責任はかかってこないとはいえ(むしろ“だから”なのか)
それなりの地位を持つ求婚者が、それこそ引く手あまたに存在するなか
一介の学生でしかない自分が本命馬だなんて、あまりにショボい。そして、非現実的すぎる

だから自分の態度はいつも、ココの怒りだか勢いだかを、のらりくらりと受け流すものになってしまう
自らの言及を避け、彼女の口から結論が提示されるのを待っているのだ
まさにちょうど今、彼女が慌てて自分を追い掛けてきてくれるのを、少しずつ歩調を緩めながら待っているのと同様に

「──────卓……!!」
「!」

ぱたばたと駆けてくる足音とともに、自分の名を呼ぶ少し高めの声が響く
その瞬間、不思議なくらいほっとする
なんでもないことのように、むしろ渋るようなポーズを取りながら振り返ると、そこに立っているのは、ココ
弾む息を整えつつ、ぷはっと大きく息を吐いたその拍子に、豊かな巻き毛がひとすじ、軽く揺れた

「……なんか、用?」
「! よ、用っていうか……。あの、さっき……なんで……」
「…………。じいちゃんに呼ばれたから。けど入れ違いになっちまったみたいだから、出直そうかと」

その問いは“なぜ江藤家に居たのか”なのか“なぜ江藤家からとんぼ返りしたのか”なのか
卓には真意を量りかねた
両方について答えてみたものの、本当のことなど言えない後者への答えは、口から出まかせだ
(実際、望里の不在を確かめることなく出てきてしまった)

「ご、誤解なのよっ」
「…………は?」
「さっきの! ほら、義理チョコっていうんでしょう? り、鈴世にあげたのはそのため!
ていうか、それだけのため! ……で、わたしは……」
「………………」

それを卓に主張することこそ、ココにとっては最重要事項であり、本当のところその主張は、卓にとっても重要な位置を占めている
つい先刻までもやもやと立ち込めていた霧は、すうっと消えた。久しぶりに見た必死な表情のおかげで
なのに、次の瞬間、卓の口をついて出たのはこんな台詞だった

「そんなこと言うために、わざわざ追いかけてきたのかよ」
「え」

彼女を必死にさせる理由が、判らないわけではない。のに、優しくすることもできない。試すような言葉を重ねるのみ
どこまで自分は彼女に求めているのか。あるいは、甘えているのか
なんだかんだ理屈をこねてみても結局のところ自分は、怖いのだ。自分から歩み寄ることで重くのしかかるであろう、全てが

「別にいいよそんなこと、どうでも。あんたが誰に何をあげてようが、知ったこっちゃないし……
どさくさに紛れて、鈴世にチョコあげられて良かったじゃん。なんたって、初恋の……」
「!!」

その瞬間、ココの表情がぱきりと固まった。そして、見る見るうちに青ざめていく
“初恋”それはこの場で、そして卓の口からだけは、決して発せられてはならない言葉だった

聞く耳持たないってこと? それとも本当にどうでもいいってこと? ───ココの目に、一気に涙がこみ上げる
いつもこのパターンだ。妙に冷静な卓相手に、自分だけが空回り。昨日は夜中まで、笑顔でプレゼントを渡す練習をしたというのに

「……わ、たしが人間界に来たのは……。追いかけてきたのはっっ……」
「え?」
「このためよ!!」
「──────うわ!?」

先刻、鈴世に渡したものよりもひと回り大きな包みともうひとつ、両手でようやく抱え込めるほどの包みを
ココは矢継ぎばやに投げつける
最初のそれはかわしたものの、さらに来るとは予想外で、避け切れなかった卓の肩にクリーンヒットした
が、見た目ほどの重量はなく、そのまま地面へとぽすんと落ちる

「…………!? な、なにす……」
「卓、あなたへのチョコ! と! た……誕生日、おめでとうございましたっっ!」
「──────あ」

それが文法上におかしいおかしくないはともかく。ココは今日という日の意味を知っていた。自分にとってどんな日であるのかを

「中身は、セーター。愛良と一緒に選んだの。……と、ハンカチ。わたし、他にはなにもできないけど
おかあさま仕込みで刺繍だけはできるから、イニシャルを……」
「…………ハンカチ……」
「いまどき名前入りなんて、ダ、ダサイけど! 手作りでできるものなんて、それしか浮かばなくて……ら、来年こそは……」

鸚鵡のように繰り返し、卓は、転がった包みをのろのろと拾い上げる。と、視界の端に
青ざめていたココの頬が、少しずつ赤みを取り戻していくさまが見えた
その赤みが増すにつれだんだん声は小さくなり、語尾はようやく聞こえるか聞こえないかのものになる。しっかり聞き取ったけれど

「………………」
「き、気に入らなければ、捨てちゃっていいから! ハ、ハンカチのほうは、雑巾くらいにはなるかもしれないけどっっ」
「……できるわけねえだろ……」
「──────え」

先刻までのココの声と負けず劣らず、消え入りそうな卓の声。それでもしっかり聞き取ったココは
我が耳を疑いつつ、包みの表面の埃をぱたぱたとはたき落とす卓の横顔を凝視した

「……愛良のことだから、ホワイトデーのことも聞いてんだろ? お返しは期待すんなよな。こっちは貧乏なんだし……
あと、三ヵ月後のほうも」
「………………!!」

“期待して”という文字通りの意味ばかりでなく、実際にその期待に見合うだけのものをくれるであろうことが
予想できる言葉よりも、自分を幸せな気持ちにしてくれるのは
照れ隠しというよりもむしろ、ふてくされているかのようにぼそぼそと呟かれた“期待するな”の言葉だった
ココは思わず笑ってしまう。やっぱり好きなのだ。どうしても

ようやくそこまで言って、言い終わるまでそちらを向けなかった卓はようやく気づく
いま自分に向かいほころんだ笑顔は、つい先刻、自分のいないところでのそれよりもずっと
深く明るく輝いているということに





少しずつ、ふたつの花は互いを求めて彩づきはじめる
それでも、ふとしたところで意地を張り目を背け、どうにもうまく噛み合わないこのふたりの恋が
晴れて実を結ぶことになるのは、この春を越え、季節をもうひとめぐりしてからのお話





→ おまけ(散り交ひ曇る紅)