・逃げ目を使う:逃げようとして機会を窺う目付きをする事。
* * * * *
そんなに顔の肉はついていないと思っていたのだが。いや、だからこそなのか
いっそ小気味よいほどに頬をぷうと膨らませた妻が
寝室へ踏み入った自分の顔をじっとりと見据えていた
それは“めいっぱい、順調に、不機嫌”のしるし
そのココロは。───いかに女心というものに鈍感な自分でも、判る
彼女が今日買ってきたという“親子三人なかよくおそろいで着ようねパジャマ”を
披露されたその瞬間、問答無用で却下してしまったせいだ
それはつい先刻のこと。夕飯後・入浴前
さらに、却下したにも関わらず脱衣所にしっかり置かれていたそれを、風のようにスルーして
パンツ一丁にタオルをひっかけだだけの姿で現れた瞬間
彼女の怒りは、心頭に達したらしい
「なんでそんなカッコなのぉ!? パジャマは!?」
「………………」
俊は、きちんと畳まれた形のまま運んできたそれを、無言のまま蘭世の目の前に置く
と、ぷちぷちぷちっと何かが切れる音が、その場に響いたような気がした
「……そう……そんっっっっっなに、着たくなかったんだぁ……
親子でおそろのパジャマなのに」
「あのなあ! いくら揃いだからって、こんなもん着れるかっっ」
今日、街でひとめぼれし迷わず購入したという、親子三人お揃いのパジャマ
淡めの緑・桃・青と、色みだけを見れば、いつもどおりの、彼女らしいセレクト
それだけなら俊だって、一瞬面倒くさそうな顔をしてみせて
その後いそいそと、彼女に対しては“仕方ねえな”の態度を崩さぬまま、身につけていたに違いない
だが、今回だけは駄目なのだ
彼女なりの家族それぞれのイメージ像であるらしい、にっこり笑顔の
くまちゃん・うさぎさん・おおかみさんの紋様が
それぞれの服地にふんだんに散りばめられている、このパジャマだけは
「なんで? なにがいけないの!?」
「………………」
キンキンとした金切り声で、彼女は問う。なにがって───すべて。なにもかも、だ
パジャマそれ自体もさることながら、それを勧めてくる彼女は、いたってマジメ
たとえばこれが、冗談で言っているというのであれば、その後のおしおきも考慮しつつ
全力でその冗談に乗ってやったに違いない
けれど、彼女がまったくの本気である以上、断じて袖を通すわけにはいかないのだ
そうでなくとも、“ここまではいい、これ以上は駄目”を示すボーダーラインは
いい意味でも悪い意味でも、日々、徐々にではあるが確実に自分の側へと侵食されつつあるのだから
「卓は、よろこんで着てくれたわよ?」
「赤ん坊といっしょにすんなっっ」
「……ほ───ら、あなたはいつもそうなのよねっ。そうやってわたしよりもつねに
一段高い位置にいようとするのっ」
「高いって……! ああもう、ピーチクパーチクうるせえな! さっさと寝ろ!」
「………………!」
まったくもって埒があかない。一喝して話を終わらせようとした俊の顔を
蘭世はじっと、さらにじっと見た
深いため息をひとつ吐いて。そしてなぜか、聖母のような微笑みへとその表情を一変させる
「……わたし、子供部屋で寝るね」
「は?」
目が点、ついでに頭の中も点になる
そんな俊をよそに蘭世は、座っていたベッドを降り、ずかずかと出入り口へ進む
美しい微笑みも、一瞬にして消え失せた
「うるさいんでしょう? 卓も夜泣きするし、あっちに行ったほうがちょうどいいわよね」
「え……。ちょ、っと……ま」
「親子仲良く、水入らずで寝ますからっ。じゃあ、おやすみなさいっっ」
「………………!!」
俊にとっては屁理屈としか思えないような理論も、これまた蘭世にとっては本気のようだった
たたみかけるようにまくし立てながらドアノブに手をかけようとするのを、慌てて食い止めると
彼女は俊の顔を真っ向からきっ、と睨みつけ、さらに声を荒げる
「どいてちょうだいっ」
「いや……、ちょっと落ち着けって! それとこれとは関係ねえだろっ」
このイキオイは、どこから沸いてきたのか。妙な迫力にひるみつつ、俊は俊で蘭世を押し止めた
───そりゃそうだ。昼夜を問わず我が物顔で人のものを吸いまくり
たまの休みも常に彼女と自分との間にいる、そんな相手に
なにゆえ、当然一緒にいられるはずの貴重な時間帯まで明け渡さなければならんのだ
しかもこんな、アホみたいな理由で
「……じゃあ、着てくれる?」
「………………!!」
とはいえ、まさか“一緒に寝てください”などと正直なことを言えるはずもなく
無意識なのか、どうなのか。そんな弱みにつけこむようにして蘭世は
ベッドの上に捨て置かれたままのブツを指差す
胸を張りぴっと腕を伸ばした姿は、いつもの優しげなイメージとは異なり毅然としたもので
俊は思わず、見惚れてしまいそうになり───つつも
彼女の身につけているパジャマにわらわらと並ぶうさぎさんたちと一気に目が合い
眩暈がしそうになった
結局、即座に肯定も否定もできぬまま俊は目を泳がせる。泳がせた視線の先、そして
蘭世の指差すその先にあるものは、俊専用のおそろいパジャマ
そしてここでもなお、にっこり笑顔のおおかみさんとばっちり目が合い
───俊は、ある意味究極の選択の瀬戸際がけっぷちに、茫然と立ち尽くした
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