・逃げ目を使う:逃げようとして機会を窺う目付きをする事。


* * * * *







「ただいま…………、あ」

久々に遅くまでじっくりと打ち込んだトレーニングを終え
心地よい爽快感とともに家に帰りついたその日
いつもなら満開の笑顔で出迎えてくれるはずの蘭世の姿は、なかった
ちょうどその時間帯に買い物に行くとか、特に得た前情報はなく、居間の電気も点いている様子
あれ、と思いつつ扉を開けると、彼女はテーブルに突っ伏している

「………………」

具合でも悪いのか そう呼び掛けようとして俊は
規則正しく立てられている静かな寝息を耳にし、慌てて口をつぐんだ
昨夜、彼女は、ほぼ一時間おきに子供部屋と寝室とを往復していたのだ
この時間に眠たくなってしまっても仕方のないことだし
眠れるときにしっかり寝ておいてもらわなくては、いつか参ってしまう
俊は寝室から毛布を運び彼女の肩にかけ、温め直すだけの状態となっている夕飯の鍋を火にかけた







「…………ん……」
「よう」
「!!」

お新香をかじりつつ、食後の茶を淹れるべく立ち上がった瞬間、眠り姫は目を醒ました

「あ……あなた? わたし……、あれ??」
「ああ、おれが帰ってくる前から寝てた。……茶、飲むか?」
「お茶? ……って……、ああっ! あなた、お食事……!」

なんだかうつろな彼女の様子は、俊の席に並ぶ使用済み食器類を目にした瞬間に一変し
それまでねぼけまなこだった目もぱっちりと見開かれる

「ああ、勝手に食った……うまかった。ごちそうさん。で、茶は」
「うわああああん、ごめんなさいっっ。お茶は、わたしが……!」
「いいから座ってろって。夕べ、大変だっただろう? 行ったり来たりで。ほれ」
「あ…………」

揃いの湯呑みにいれた茶を、そっと差し出す
ありがとう、と小声で呟き蘭世はそれをひと口飲み込み
俊もひと口すすり終えるのを確認したのち、神妙な面持ちで口を開く

「……わたし、子供部屋で寝るね」
「は?」

唐突といえば唐突な申し出だった
家を建てるとき、子供部屋をふたつ作ろうと言ったのは俊のほうだったが
それは当然、そんな用途のためではない
そもそも、ある程度成長するまでは寝室にベビーベッドを同居させようと思っていたくらいなのに

「ほ、ほら! 卓が夜泣きして……たいへんだから。ね? しばらく別に……」
「………………」
「え、へへ……」

蘭世は言葉を続けた。じっと見つめる俊の視線から目を逸らしながら

蘭世が夜中、寝室と子供部屋とを往復していたのを、何故俊が知っているのか。答えはひとつだ
細心の注意を払ったつもりでも、すぐとなりに眠る、且つ
寝ている間でも、常にある程度神経を張り巡らしているであろう彼には、通用しなかったということ
しかも、“自分が気づいていることを、蘭世が知ってしまったらどう思うか”
それを慮って、気づかないふり・寝ているふりをしているというおまけつき

結果、蘭世としてはそう口にしてしまい
俊としては。───案の定だ、と思った

「純粋に、夜中、あっちこっち往復するのがしんどいっていうなら、そうすればいい」
「し、しんどいっていうか……その……っっ」

たとえ真意がそこになかったとしても、そうだとひとこと言ってしまえば、話は済む
きっと回りまわっては、それが彼を思うことに繋がるのかもしれない
けれど、たとえ一片・方便だとしても蘭世には、俊に対して嘘をつくことはできず
ぐっと言葉につまった蘭世の横顔を、ため息をつきながら俊は眺めた

「……あのな。卓は、“おまえとおれの”息子だよな?」
「!!」

泳いでいた蘭世の目線が、再びカシャリと俊の目線に重なる
ふっと微笑み俊は、蘭世のはねた前髪に手を伸ばしそっと撫でた

「ひとりでがんばろうとしなくて、いいから。こっちは、鍛え方が違うんだし」
「………………」
「な?」
「……うん……。ありがとう……」

同じ“がんばる”のなら、少しでも長く一緒にいられるようがんばろう
───と、口にすることはできなかったけれど

言葉のかわりに髪を撫で続ける俊の手を蘭世は取り、自分の頬にあてる
そうしているだけで伝わってくるものも、ちゃんとある





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