お題.com 単品お題 台所の君

卓は夏から始めたアルバイトのシフトをこっそり増やしていた

この家から卓の通う大学は相当の距離がある。勿論それを承知で志望した大学ではあったのだが、いざ通い始めてみたら、効率主義の卓にとって現実の壁───通学時間の長さ───は思った以上に厚かった
移動に時間をとられるくらいなら、いっそのこと大学の近くに居を構え、そのぶん他のことに時間を充てたい。学業はもちろん睡眠その他、特にアルバイトにも力を入れれば家計に迷惑をかけずにすむし、少し早い社会勉強にもなる───等々。受験勉強並みに気合いを入れたプレゼンが功を奏して、卓は両親から折を見ての独り暮らし権を勝ち取っていた

さしあたっていまはその「折」を少しでも早めるための準備活動中だった。目標は来春
交渉に時間がかかったとはいえ、家を出ることそれ自体は案外容易く、その後の生活を保つために派生してくる諸項目のほうが実は手強い。たとえば、いままで母が一手に引き受け当然のように完璧以上に執り行われていた家事全般はどうするか
掃除は……埃をはらい掃除機&ワイパーをかけるだけでも最低限の格好はつく。洗濯は……昨今の洗濯機は賢いので洗濯前のポケットチェックを忘れなければ多分いい感じに済ませてくれる。ただ、炊事に関しては……。ひとりぶんの食事の用意をするくらいなら、いっそ外食のほうが安く済むのかもしれないけれど、たとえば米だけでも炊いておけば、買うのはちょっとした惣菜のみでよい。そのちょっとした惣菜に飽きたとき、自分で数品でも作ることができれば、日々をなんとなく食いつなぐことができる……と一念発起、改めて母の教えを乞うことにしたのだった。そして今日も卓は台所に立つ

そんなわけで、真壁家を訪問したココを出迎えリビングに案内したのは愛良だった。夕飯の支度をする時間帯だし、お手伝いがてら料理の手ほどきを受けようと踏んでの来訪だったので、台所に思わぬ先客がいたことに二重の意味で驚いた

「愛良、あれ……。卓、どうしちゃったの」
「あれっ。おにいちゃん言ってなかったんだ。最近は週1、2くらいでおにいちゃんが晩ごはんつくってるよ」
「え!? そうなの?」
「ひとり暮らしの準備だってー」

『ひとり暮らし』の箇所で愛良は意味ありげにココをチラリと見た。あわよくば卓が、そしてココが『ひとりではない暮らし』を狙っているのは公然の秘密だ

最初の二年は、広めの1LDKで様子見すると決めた
いままでは、ココがこちらにやって来ても、物的にも人的にも万全なサポート態勢である真壁家(ファミリーver.)での滞在だったが、真壁家(卓単体ver.)ではそうそううまくいかないことは想像に難くない。ある程度、むこうとこちらをいったり来たりの馴らし期間が必要だろう。はじめからいろいろ潤沢な環境を用意できればいいのだが、学生の分際ではなによりも金銭的都合が立ちはだかり───部屋の契約更新時の引っ越しを想定したうえで、二年がかりでいっしょに環境について考え、整えていって欲しいとココが卓に頭を下げられたのはひと月ほど前のこと

単純に金銭面だけを見れば、卓がそれを良しとするかは別問題だが、手だてはいくらでもある。ココがどうしてもと言えば、ココの両親に援助を依頼することも辞さないだろう
けれどふたりでこれからの暮らしを作り上げていく道を選んでくれたことが嬉しくて、そんな愚答は吹き飛んだのだった。垂れたままの卓の頭を上げさせ、ぎゅっと抱きしめて……その後の一連の艶めく流れはここでは割愛するとして

まさに有言実行。ひとり暮らしの準備として行われている最近の卓の行動すべてに、ほんの一端でも自分のためという要因が含まれていると思うだけでココはじんとする。けれど真壁家の他のメンバー、特に愛良にとっては格好の娯楽の提供となっているようで、朝顔の観察日記もかくやと思わせる詳細な情報公開でリビングは盛り上がった

「最初はなかなかすごかったよね。砂糖と塩を間違えるとか……漫画みたいだった」
「へ、へえ……」
「いつだったっけ? 鍋が爆発したの! あれ、あのあと洗うの大変だったよねー」
「まあ、でも……掃除がうまくなって、一石二鳥だったろう」
「(おじさままで……。ていうか、爆発……?)」
「そうかも! あっ、そういえばカレーはひとりで作れるようになったみたいよ」
「……サラダのきゅうりがつながってるとかもなくなったな」
「余計なこと言ってんなよ愛良!」

余計なことを言ったのは妹ばかりでなく父も同様なのだが。それに気づいていないのかわざとなのか、フライパン片手に単独指名の怒声を飛ばしながら卓がやって来た。その後から苦笑しながら(ただし積極的に否定することもなく)蘭世がやって来て、ココの分のお茶をテーブルに置く。やはり手伝いすべきかと迷いうろうろしていたのを、気にせず座れという意味もあるのだろう。お礼を言いながらココが席につくと、仏頂面の卓とテーブル越しにバッチリ目があった

「……メシ、5人分作ってるんだけど。食ってくだろ?」
「う、うん……!」

ココの一生懸命頷く姿に気をよくしたのか、ココにだけこの努力が伝わっていればいいということなのか。本日の料理人は満足げに頷き、悠々と持ち場へ戻っていった
その背中とココのほんのり色づいた顔とを交互に眺めながら、愛良はにやにやと笑う

「ねえ、ひとり暮らしに慣れたころにはココおねえちゃんの誕生日が来るでしょ? そのとき豪華な手料理をふるまえたりしたらいいよね! おにいちゃん!」
「うるせえ!!」

換気扇やら、フライパンで油が爆ぜる音やら、それなりに遮る音は大きい筈なのに、ほぼほぼ反射の勢いで卓は台所から叫ぶ
一方、その無邪気な言葉になにかを思い出した俊は、飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになり、すんでのところで持ち直し───たつもりが、同じくなにかを思い出し夢見るような顔でこちらを見ている蘭世と目が合い、完全に撃沈した



→ 道の先は桃源郷