心の支えの話/第36話のあれ

ふと感じた人の気配に目を覚ますと、そこにはフェルンの顔を覗き込むシュタルクの姿があった

フェルンは一瞬ぎょっとしたが、一拍おいて、自分が風邪をひき昼間から寝込んでしまっていたことを思い出した。熱がまだひいていないのだろう。思考がぼんやりと定まらず、体中が熱い。そして、とにかくだるい。薄く目を開きベッドに横たわったままじっとしていると、フェルンの額に手を伸ばすシュタルクと目が合った。中腰で腕を伸ばした、半端な体勢のままシュタルクは声をひそめる

「ごめん、起こした?」
「……いえ」
「フリーレンは明日の薬の準備してる。勝手に入るのもどうかと思ったんだけど、それ、温くなってるだろうなと思って」
「…………」

と、シュタルクはフェルンの額、正確には、額の上ですっかり熱をもってしまった布巾を指差す
シュタルクはそれを桶の水にさらして固く絞り、フェルンの額から髪の生え際にかけて浮いた汗を拭う。そして布巾を再度絞り直し、額に薄く貼りついた前髪を整えながら分けてそこに当てた。ひんやりと染み渡る、氷のような冷たさがとても心地いい。わざわざ井戸で水を汲み直してきてくれたということなのか、シュタルクのジャケットの襟はしっかりと閉じたままだった

「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「寒いとか、ない?」
「大丈夫です」

シュタルクは頷き、フェルンの頭に面した壁の腰高窓に手をかざす。冷たいすきま風が入り込む窓の合わせ目を調整し、納得したような素振りで椅子に腰を下ろした。夜になるにつれてちらつき出した雪はしんしんと降り積もり、窓の外の景色を白く染めていた

「あの……薬の材料を集めに行ってくださったって。ありがとうございました」
「ああ、キノコ?」

元気になってここを出るにしても、あの桜を見てからにしよう そう言ってシュタルクは笑った
眠りにつく前、フェルンに薬を飲ませながらフリーレンも同じようなことを言っていた。『治ったら、純粋に桜を見に行けるね』。しかしその時点でフェルンはすでに意識が朦朧としていたのもあり、なぜ唐突に桜の話題になったのか、いまいち意味が繋がらなかったのだった
シュタルクによれば、薬の材料のうちのひとつである茸が、桜の木の根元で自生している、かつ、その桜がとても見事な眺めなのだという。茸の巨大さを両手を広げて表すのを眺めながら、フェルンは飲んだ薬の味を思い出していた。言われてみれば、燻した桜のような匂いと味がしたようなしなかったような……しなかった。いかにもな薬の匂いと味だ。いまよりずっと幼いころから、風邪をひくと決まって用意された薬とよく似ていた

そうか、ふたりは桜を見てきたんだ。自分をおいて、ふたりで
ふたりの間に、自分のいない景色ができた。他でもない、自分のために出かけてくれたからだというのに、フェルンはそのことがなぜかどうしようもなくモヤモヤとさせられた

「私、風邪をひくといつも熱からなんです。慣れてるんです。だから……」
「え?」
「フリーレン様にも伝えてください。ずっとついていてくださらなくても大丈夫ですって。もう子供ではないですし……フリーレン様もシュタルク様もお疲れなのですから」
「…………」

寒さと雪のなか歩きづめだった道のりで疲弊しているのはフェルンだけではない。もっとも、基礎体力的なものはまったく違うだろう。それでも、万が一にも風邪が伝染ってしまったら困る。せめてもの防護策のつもりで、フェルンは額の布巾を押さえ、のろのろと体を反転させた。すると、目の前に迫る石壁から外の冷気がじわりと伝わってくる気がした
実際に、もう子供ではないのだから、ひとりでも平気なのだ。おとなしく寝ていられる。そして、ぐっすりと眠ればきっと、こんなモヤモヤはすべて忘れられる。───はず

「一応、言うだけは言うけど……言ったところでフリーレンはやめないと思うな」
「…………」

シュタルクは、フェルンの背中との間にできた隙間を埋めるように掛け布団をそっと押さえた

「フリーレンからしたら、フェルン……ていうか俺達なんて、生まれたてほやほやの赤ん坊みたいなもんだろ。それは仕方ないって」
「……でも」
「ただ、子供だなんて思ってないよ……たぶん。少なくとも、フェルンが思ってるような意味ではね。本人に訊いてみな」
「…………」

ふたりで桜を見たときにそんな話題になったのだろうか。また、フェルンの胸の奥でなにかが静かにざわめく

子供扱いするなとフェルンが噛みついて間もなくふたりは採取地へと出かけていったので、そうであったとしてもなんら不思議はない。けれど、それだけではないような気もする。シュタルクは意外とフリーレンの心理を掴んでいる
たぶん彼は他人のことをよく見ていて、心の機微というものにも敏いのだろうと思う。相手の息遣いや筋肉の動き、身に纏う空気を瞬時にして読みとらなければいけない戦士の、いわば職業病の一種であるかもしれない

───私の気持ちには鈍いくせに。そんな恨み節を噛み殺しながら振り返ると、シュタルクは頭の後ろに手を組みにこにこしながらフェルンを眺めていた

「フェルンががんばり屋だってことは俺でも知ってる。けどそれはそれ、これはこれ。弱ったときは、きちんと甘えるのが大人だと思う。俺はね」
「そういうもの……でしょうか」
「うん。まあ、フリーレンの場合は……こういうときくらいフェルンに甘えて欲しいってだけかも。いつもかいがいしくお世話してもらってるからさ」
「……。私が動かないと、フリーレン様は際限なく寝ちゃうかもしれないし……」
「自分がして欲しいことをしたいってのもあるかもな。俺の場合は特にそう。……調子悪くて寝込んでて、ずっとひとりなのって、なんか気分までしんどくならない?」
「……それは、まあ……」

シュタルクが、まるで彼自身がそうであったような言い方をしたのがフェルンは些か気になった。ほんの一瞬だけ瞳の奥が翳って、すぐいつものにこやかな表情に戻ってしまったので、何も言えなかったけれど

「……俺が風邪でぶっ倒れたら、フェルンに手を握ってて欲しいかな」

それは、手を握られることに抵抗したフェルンを彼なりに慮っての言葉、ただそれだけだったのかもしれない。それでもフェルンは、なぜか胸に漂っていた靄がすっと晴れたような気がした。頬が緩むのが自分でも分かってしまった

「シュタルク様は頑丈だから、風邪なんてひかないでしょう」
「えっ、暗に拒否られてる? ……まあ、ナントカは風邪ひかないっていうしね……」
「ひかせないよう、きちんと躾けます」
「躾ってそんな、犬か猫みたいな……」

らしくていいけどさ、と苦笑しながらシュタルクはいつの間にかぬるくなってしまっていた布巾を手に取る。彼は意外とまめまめしく、すでに充分甘やかされているような気がする。ならば、もう少しだけ甘えてみてもいいのかもしれない。桶の水で冷たさを取り戻した布巾を再び額に当てられながらフェルンはそんなことを思った

「喋りすぎたな、ごめん。ゆっくり寝て」
「…………」

フェルンはそれには答えず、左手を布団から出し、そのままシュタルクの目の前へゆっくりと伸ばした

「手は握っててくれないんですか」
「へ?」
「……さっき、自分がして欲しいことをするって言ったのに」
「…………」

シュタルクはフェルンの手にそっと触れる。いつかのお願いを踏まえてなのか、そのままゆっくりと指を曲げていき、両の手でやさしく包みこんだ

その手は何度も冷水に浸かったせいでひんやりとしていた。でもそれはほんの束の間で、すぐさま本来のあたたかさに戻っていく。ごつごつと骨太の、フェルンのそれとはぜんぜん違う質感の、戦う男の手だ
しっかりした質量で挟み込んでいたのを、熱が籠るせいなのか手汗でも気にしているのか、しばらくすると静かに開いてまたゆっくりと挟み込む、その繰り返し。そのたびに、ざらりとした手のひらで擦られているような撫でられているような感覚と同時に、耳から首筋にかけての辺りにちりちりと軽い痺れが走る。───おとなしく眠りにつくつもりで甘えてみたはずだったのに、フェルンはかえって目が冴えていくような気がした

「硬い……」
「理不尽!」

やはりおどけて場の空気を流すことしかできず、やはりいつもの調子で応えられたことにホッとする
フェルンは左手を預けたまま、とにかく目を瞑ることにした。目を瞑って心の中で数でもかぞえていれば、熱も手伝っていつか睡魔も訪れるに違いない

「おやすみなさい……」
「……おやすみ」

しんとした部屋にその声だけがほんのりと響いた



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