あまりの天気のよさに思わずくり出した散歩から帰り、玄関の扉を開けたその瞬間
魔界へと続く地下室への階段を降りていく彼と、それを見送る母の姿が目に入った

「あれ……?」

彼が自ら魔界へと出向くことなんて滅多になく、もともと今日は
久しぶりに晩ご飯を一緒に食べようと約束していた日だった
何か、あったのだろうか
居間に戻ろうとする母に蘭世は呼びかける

「おかあさん!」
「あら蘭世、おかえりなさい」
「た、ただいま……。真壁くん、どうしたの……? 魔界……」
「ああ、『たまには顔を出しに行ってみる』んですって。別に何も変わった様子はなかったわよ」
「え……そう、なんだ……」

何かあったとしても彼はそれを顔に出す性分ではないということは
蘭世だけでなく家族がみな承知していることだから
母の回答に、ほっと安堵する
でも、それならそれでやっぱり気になるのが微妙な乙女心というもので

「…………」

ぐるりとUターンして、彼が降りて行った階段へと急ぐ
不必要なまでに足音が響く階段を考慮して、ミュールを脱ぎ
裸足のままでぺたぺたと猛ダッシュ
母の言葉どおり、何ら特に緊急を要する様子ではなく、ゆっくり歩いていた彼が
足を止めたのは

「(え…………!)」

思わず声がもれそうになったのをようやくのところで止める
彼が今開こうとしている扉は、魔界へと通じる扉ではなく
今よりほんの少し前、自分も興味本位で開いてしまった、鏡の間へと続く扉

頭にぽんぽん浮かんで消えるクエスチョンマークを処理できないまま佇む蘭世の目の前で
彼は静かに扉を開け、その身を隠すように滑らせる

「ど、どうして……?」

年齢と身体のバランスを調整するにはまだ早く
むしろ、日頃から鍛えている分、そんな処理など余計な世話に思えるし
魔界と係わり合いになることすら半ば面倒くさそうにしている彼が
唐突に探究心をもったとは考えづらい
──────けれど、もしかして、もしかしたら

鏡の国のわたしに興味持ってくれちゃったりしたの……かな? 

「……なんちゃって……」

自分の考えが自分で傲慢に思えて、蘭世は自分の額をこつんと小突く
でも、やっぱり傲慢な考えかもしれなけれど
それ以外に思い浮かぶ要因はなくて

「…………」

そうっと扉を開け中を覗き込むと、彼の姿はなく
そうなると、行き先はただひとつ
ごくりと息を飲み込んで蘭世は
目の前に佇む、三つの鏡のうち一番大きな鏡の前へと進み、手を添える







ぐるぐると捻じ曲がった時空の淀みから、ぽんっと吐き出されたそこは
以前この世界にやってきた時とは異なり
扉の側面に掛けられた、大きめの鏡から飛び出してきたらしく
ぺたんと腰をついたそこは、江藤家の玄関

「来ちゃった…………」

そんな感慨もほんのつかの間で
きょろきょろとあたりを伺い、先にこの世界に来ているであろう彼を探すべく腰を浮かしかけ
蘭世は、はたと、自分の行為に孕む危険性に気づく

──────ど……うしよう…………!
嬉しくって、思わず真壁くんについてきちゃったけれど
こうやってわたしまでこの世界に来ちゃったら、この世界には
わたしが二人いるってことになっちゃうんじゃないかしら……

──────ああ、でも、ちょっと待って
前に、わたしがこの世界に来たときに、「この世界で生きるわたし」は存在しなかった
と、いうことは
ふたりでこの世界に来たのなら「この世界で生きる真壁くん」「この世界で生きるわたし」ふたりとも
この世界には存在しないんじゃ……ないかしら?
ふたりをとりまく環境だけが、いつもの世界と全く違う世界 = 鏡の国
だと考えてしまってよいのよね…………
じゃあ、わたしがふたりいてパニックになる、なんて状況には、ならないか……

多少、ご都合主義的過ぎる解釈のような気がしなくもないが
少しずつの自問自答で、蘭世はひとり一喜一憂する

──────ああっ! でもっっ
もし真壁くんが本当に、鏡の国でのわたしに興味を持ってここに来てくれたのだとしたら……
今この世界にいるわたしは、「真壁くんが会いたいと思ってくれているわたし」ではなく
「いつものわたし」で……

「……………」

どうしよう、どうしよう、どうしよう
せっかく真壁くんが期待(?)してくれたのに
今わたしがこの世界にいる時点で、すべて、ぶちこわし

──────帰らなきゃ……

そう、蘭世が自分の世界へと帰るべく、つい今しがた自分を吐き出した鏡へ手を伸ばした瞬間
お盆を片手に客間から出てきた母が蘭世に声を掛ける

「あら、蘭世! 帰ってたの?」
「──────!」
「真壁くん、客間に通しているわよ。さっき魔界から帰ってきたのだけど
あなたったら、どこに行くでもなく消えちゃってるから……
ちゃんと謝っておくのよ」
「え、あ、う……うん! ありがと……。ごめんなさい……」

居間に戻る母をひらひらと手を振って見送りながら
蘭世は密かに、ためいき
よりによって、まだこの家にいるなんて──────

でも
(半ば強引に母に引き止められたのかもしれないとはいえ)この家で自分を待っているということは
やっぱり、目的は、この世界での自分に会いに来ることだったのかもしれなくて
つい、ふらふらとそちらへ足が向かってしまう
────────こうなったら、いっそのこと

「………………」

客間の扉の前で蘭世は立ち止まり、ぼそぼそと口の中で何度も何度も呟く
いつもなら、恥ずかしくて決して呼ぶことのできない彼のファーストネーム
鋭い真壁くんのことだから、すぐ気づかれちゃうかも
でもそのときはそのとき、──────ええい、ままよ!

「俊!」
「え!?」

扉を開けて、なんてこともないようなフリを貫くことだけに意識を集中して
彼の名を呼ぶ
何かあってもそれを顔に出す性分ではない彼が、面白いくらいにぎょっとした表情を浮かべて振り返り
蘭世をまじまじと、上から下まで舐めるように見る
疑って というよりもそれは、まさに心からの驚愕の表情
ここまで彼が動揺するのを見るのは初めてかもしれない
そして自分自身も、ただその名前を呼ぶだけでこんなにも動揺する
それを隠すように押し切るように蘭世は、引きつっているかもしれない笑顔を絶やさずに言い放つ

「え? やだ、どうしたの?? いつもそう呼んでるじゃな〜い♪」

──────呼んで、ません! というか、呼べません!!







とはいえ
一度開き直ってしまうと、結構その気になりきれてしまうもので
自分の名前を呼ぼうとして、異常なまでにどもり、結局呼べずに終わった彼のことを
可愛いな、などと思う余裕まで出てくる

多分、彼は自分のことに気づいていない。気づかないまま元の世界に戻れば
彼にとっては今の自分が「鏡の国の自分」になる
それならば、いつもは恥ずかしくてできないようなことをしてしまっても
彼に嫌われるようなこともないに違いない───などと
大胆なのかどうなのか自分でも判らないような思考に駆られて

──────例えば、こんなことも、しちゃったりして……

さりげなさを装って、彼のぷらぷら揺れている手に指を絡める
やっぱりいちいち仰天してこちらを振り向く彼

「どうか、した?」
「…………いや……」

本日二度目のお散歩もやっぱりいい天気で、少しずつ蘭世の心も晴れやかになり
もともと前向きな性格であることも手伝って
いつもはできないようなこと・今ならできるようなこと を、あれこれ考える
──────きゃ♪ なんて大胆な蘭世vv などと自画自賛しながら







けれど唯一の誤算は
彼もまた同様に、いつもはできないようなこと・今ならできるようなこと を
試行錯誤し始めていたということ

決して人前では必要以上にべたべたしようとせず、手を繋ぐことすらつい最近ようやく実現をあいみた彼が
手を繋ぐどころか、肩を抱くなどの第二行程をすっ飛ばして、自分の腰を抱いて歩いた
この時点では、まだ単純にそれを嬉しく思う感情だけが先立って
他には何も考えられなかった

けれど
明るい灯の下で肌をさらし彼の肌を直視して自分から口づけ
そんな、「いつもはできないようなこと・今ならできるようなこと をしている自分」を
彼は「全部」好きだと言った
(好きだということ自体、そう簡単に表に出してはくれないのに)







────────じゃあ、「いつもの自分」は?







「〜〜〜〜〜〜〜〜っ」

派手にぶつかった鼻なんて、全然、痛くなんかない
ある意味自業自得の所業が招いた、例えようのない不安が突き刺さった胸が痛くて
溢れる涙が、止まらない



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