「……………すげえ顔」
「!!」
その、半ば吹き出しながらのからかうような口調が、全ての呪縛を解き放つ
とはいえ、彼の身が重なったままの胴は、おいそれと動かすことはできず
かわりに、自由のきく腕で蘭世はぽくぽくと彼の背を叩いた
「す……っ、“すごい顔”って! ひどいっっ」
「いや、ホントにすごかった。眉間にこんなシワが、ぐぐっと」
「だ、誰のせいだと思ってるのよぅ……っっ」
「いや、免疫をつけてもらおうかと……あいてっ」
他人事のように笑う彼が、なんだかとっても腹立たしい
叩き続ける腕から逃れるように、彼はごろんと体を反転させ
けれどその距離は変えず、蘭世のすぐとなりに横になり、今度はやさしくその背を抱き寄せて
額に軽く唇を寄せた
「ひゃっ」
「……なんだ、その、色も素っ気もねえ悲鳴……」
「色……っっ」
「まあ、いいけど……。とにかく、今日は、サンキュー」
「え…………」
「うまかった……すごく……」
「…………う、うん……あ、ありがとう…………」
途端に、なにもかも許せてしまいそうになる自分も大概だと思う
やはり、自分の作ったもの、喜んでくれるといいなと思っているものを
彼が喜んでくれているのを知るのは、嬉しいことだ
───それに
「あ……あのねっ。わ、わたしも今日、すごく嬉しかったの」
「…………ん……?」
「ま、真壁くんは覚えてないかもしれない、けど、今日はねっっ」
「………………おれが……ゾーンに、やられそうになった、日…………」
「そうなの! だからね、ずっと前から今日は、せめていっしょに帰れるといいなって思ってたの
それが、こんなに長い時間いっしょに……って、ええっっ!?」
「………………」
顔を見上げようとした蘭世の目線から逃れるように
無言のまま、もそもそと。俊は蘭世を胸に押しつけ、抱く腕に力を込めた
「……っま、真壁くん、覚えて……っっ」
「…………。どんだけおれは、おまえん中で印象悪いんだ……」
「そ、そういう意味じゃ、ないの! でも……今日の約束は、ぐ、偶然、だと思ってた
そんなこと覚えてるの、わたしだけだろうな、って…………」
「先週……先々週くらいから、シフト調整して……休みに、した……
部活は……二人そろってサボる度胸は……なかった…………すまん…………」
「…………………!!」
返す言葉がなくなったそのかわりに、鼻の奥につんと何かがこみ上げた
だってそんなこと、本当に、ありえないと思っていたのだ
あの日───彼に言わせれば“ゾーンにやられそうになった日”───に、彼が口にした言葉は
このうえなく嬉しかったし、心の糧となっている
けれど、彼は自分以外にも抱えるものが多すぎることも判っていた
ひとりでやっていくと決めてから、彼は、誰の援助も受けておらず
頭を占めるのは、彼の夢であるボクシングと、生活維持のためのアルバイト。それだけで日々、精一杯のはず
自分は、せめてその邪魔にならないようにしたい、できることなら何か役に立てればいい
彼の言う“必要”の範囲を、踏み越えないように見逃さないように
彼が自分に目を向けることができない分、自分が彼を好きでいればそれでいい
むしろ、自分に気を取られるくらいなら、その分彼自身のことを考えて欲しい
心の片隅ではいつも、そんな、ある意味卑屈ともとれる思いがあったのに
「……ま、かべ、くん…………」
「………………」
「ど……うしよう……。す、すごく、嬉しい…………」
ぼろぼろ溢れてくる涙に負けないよう鼻をすすり、彼の胸にしがみつく
それ以外、どうしたらいいのか判らなかった
「………………」
「……真壁くん…………」
「………………」
「………………」
「………………」
「…………。真、壁くん……?」
こちらが、涙がぼろぼろと止まらなくなってしまうような言葉を最後に
俊の返答はぱたりと止まってしまった
そろりと顔をあげると、それまでその動きを留めていた腕の力は、先刻までのそれとは全く異なり
ほぼ、抵抗なく、蘭世の肩から肘のあたりへと滑り落ちた
「…………寝てる……、の……?」
覗き込んだ彼の顔からは、気を張るような様子が微塵も感じられず
意外に長い睫毛をたたえた目はごく自然に閉じられ、静かに寝息を立てていた
そういえば、彼の言葉のなかには、先々週くらいからシフトを調整したという
気になる一節が含まれていた
まさか、この日のために彼がそんなことをしているとは思わなかったし
それまで、学校等では疲れたそぶりを全く見せなかったから、気に留めることすらできずにいたけれど
いったいどれだけの“調整”をしてきたのだろう
そっと頬に手を触れると、口元がもごもごと何かを呟いたように見えた
刹那、再びその腕が蘭世の背へ伸び、枕でも抱くかのように今度は、脚まで絡めてきた
「ひゃ…………」
「………………」
「…………。寝て、る……の、ね…………」
寝息の規則正しさは変わらず、抱きしめるといっても、動けないほどの迫力を持ったそれではなく
逃れようと思えば、きっと簡単にかなう程度の力
多分、眠りに落ちながらの、無意識な動きなのだろうと思う
けれど逆に、それが嬉しかった
多分、このひとは本当に、自分のことを思ってくれているのだ
眠っている間ですら、離したくないと思ってくれるくらいに
知っているつもり、信頼しているつもりだった彼の心を
改めて今、近くに感じる
自分の居場所は、ちゃんとそこに存在するのが見える
「………………」
ごろりと横になったまま、起こさずこのまま寝かせておくべきか
それとも、ちゃんと布団を敷いて寝かせるべきか
ほんの少しだけ悩みつつ───すやすやと眠る俊の顔を蘭世はじっと眺めていた
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