抱き寄せたその瞬間に鼻先をくすぐった、花のような甘い香りに
もっともっと近づきたいと思った

このまま、流して流されてしまってもいいんじゃないか
本当は、そう思ったりもしたのだ
けれど、腕の中でこちこちに固まった肩と表情は
“無理強いはしない”そう約束したあの日の自分を思い起こさせ
いま一歩を踏み出せることができなかった

未練がましく抱きしめたままの耳元で、ころころとやさしく響く耳ざわりのよい声は
昂りを無理矢理抑え込んだ心を、すうっと落ち着かせる
けれどその安らぎにも似た感覚は、必要以上の疲労と適度な満腹感、このふたつと相俟って
俊をゆるゆるとしたまどろみへと誘った



「……覚えてないかもしれないけど……」

少しずつ、まともな思考能力を欠いていく頭に
おずおずと切り出しつつも、聞き捨てならない言葉が響いた
なぜ彼女がそこに疑問を感じるのか、さっぱり判らない



自分には、極限まで疲れていると、抑えきれないものがどうやらふたつあるらしい
ひとつは、いつもなら、必要であろうことまで含んだままつぐんでしまう、口
もうひとつは、実は思っている以上に強大であるらしい、自分の能力

格好悪くも、ぼろぼろと、それまでの裏事情までこぼしてしまった直後
心に浮かぶ思いをこと細かに読みとるまでには至らずとも
ほかほかあたたかくなった彼女の心が宿す、オーラのようなものが
じんわりと伝わってきた
このうえない心地よさ。それを体全体で抱きしめたまま、俊は眠り続けて──────







「……あ、起きた……?」
「……………!!」

目を覚ましたその瞬間、自分の腕の中でじっとこちらを見つめる蘭世の瞳とまともにぶつかった
かなりの時間、その姿勢でいたということなのだろう。堅い畳に接していた部位が、心持ち、ひきつる

「お……おれ、寝ちまってた、のか……悪い……」
「ううん……。それより真壁くん、すごく疲れてたでしょ? ごめんなさい……」
「いや、それは……え」
「ありがとう……」

と、静かに蘭世は俊の胸元に顔をうずめた
ふわりと漂う、その花のような香りに、一瞬にして意識をはっきりと引き戻される
単なる“意識”だけではなく、余計な邪念すらも

「……なんだよ……」
「ううん…………」

ふふ、と小さく微笑みながら彼女は、俊のシャツの裾をきゅっと掴む
そして、はにかみながらも心から幸せそうに呟いた

「………すき………」
「………………」

あらためて、そう言葉にされるのは、嬉しいことのはずなのに
今この瞬間にかぎっては、ずきりと胸が痛む
無防備に身を摺り寄せる彼女を、やさしく抱きとめる(だけで留める)余裕などない自分が判るからだ

結果。俊は、蘭世の言葉にも動作にも応えることなく、きわめて事務的に
ともに横たわった彼女の身を支えながら、起き上がった
驚いた様子の彼女の顔を見ないようにして、小さな置時計に目をやる

「……もう、10時なんだな」
「え? あ、……う、うん……」
「送るから、そろそろ」
「…………っっ…………」
「え?」

シャツの皺を伸ばしつつ立ち上がろうとした俊の腕を、何か言いかけた彼女がぐっと引いた
耳まで紅潮した顔をこちらに向けながら、おそるおそる、消え入りそうな声で呟く

「…………あ、あしたは……学校も、休みだし……」
「…………!!」

俊は、咄嗟にその口元をてのひらで塞いだ
本音を抑え込んでいるつもりでも、結局は弱気なままの指の隙間から溢れ出してしまいそうな
危うい状態の自分に対して、彼女の口からそれ以上続けられるのは、きつい

「ま、真壁くん…………?」
「……おまえ、そういうこと……ホントに意味判ってて言ってんのか」
「!? 意味って……」
「さっきみてえな冗談じゃ、済まなくなるってことだよ」
「そ…………っっ」
「おれは!」
「!!」

荒げた声に、彼女がぎくりと肩を震わせたのが判る
判ったとはいえ、そちらに目を向けることはできなかった

「……おれは、おまえが思ってるよりもずっと単純なんだよ
………さっきのは、悪かった。調子に乗りすぎた
だから……頼むから、そういうことを軽々しく……言うな」
「………………」

黙りこみ、うつむいてしまった蘭世の膝に、ぱたぱたと雫が落ちる
ふうっと息をついて俊は立ち上がり、テーブルに放ったままの部屋の鍵を手にして
同じく立ち上がるよう、彼女を促した

「……ほら」
「っ、や………」
「………………。泣くなよ………」

溢れる涙を拭いもせず、彼女はただふるふると首を振る

「……本当に、嬉しかったの」
「………………」
「と、突然、眠り込んじゃうくらい疲れてしまうのは、いやなの。いやなんだけど……
ま……真壁くん、も、わたしのこと、ちゃんと考えてくれてるんだなって……」
「…………そ、それは……」

できることならそのへんも、夢の中での出来事であって欲しかったのだけれど
やはり、そううまくはできていないらしい
即座に否定しかけ、けれど、否定するのもおかしな話で
思わず取り落としそうになった手の中の鍵を、俊はぎゅっと握り締めた

「だから……だからね。もっとずっと、いっしょにいたいなって……思ったの」
「………………」
「……軽くなんか……ない…………」
「………………」

その言葉が軽いのか重いのか───本当は、夢心地のなか、既に知っていたような気がする
無理矢理“冗談”とカテゴライズした行為で、一瞬、固く閉ざされた心を
ほどいたのは他でもない、自分だ

そして、その言葉を軽くするのも重くするのも、最終的には自分なのだろう

あとに残るのは、もともとそれを狙っていたと思われるのは嫌だ、とか
気にすることそれ自体が馬鹿馬鹿しく、彼女に対してある意味失礼ともいえる
自分自身との折り合いのみ
彼女が、なぜそんなところに? と、首をひねってしまうようなことを悩んでいたのと同様に

「………………う………」
「………………」

声を殺して肩を震わせる蘭世のとなりに、俊は再び腰をおろす
彼女は、目元口元を押さえたままこちらをそっと伺って
俊の固い表情に、さらに顔色を曇らせた

「…………あ」
「……本気に、するぞ」
「………………っっ」

俊は、声にならず、こくこくと頷くだけの頭をしばらくじっと見ていた
ようやく気が済んだのか、その動きを止め、まっすぐこちらを見つめ返した彼女の肩に
手を添え、ゆっくりと胸元へ引き寄せた





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