・旧(ふ)り難し:昔と変わらない。忘れがたい。今でも心に残る。


* * * * *







そんな余裕もないくせに、思わず足を止め、見上げてしまうほど
月の綺麗な夜だった



彼女のもとを去ったのは、これで二度目だ

一度目は、街を白く厚く包んだ雪に光がぼんやりとにじんで
その明るさがやけに目にしみた三日月の夜
そして今日も。夏の盛り、じっとりとまとわりつくような熱帯夜
闇のなかに身も心も紛れてしまえればいい そんな願いもむなしく
ぽっかりと浮かんだ船のような月が、走る自分を嘲笑うかのように明るく照らす





まともに言葉で告げたのは、先刻のそれが初めてのこと
他に言いようがなかったからとはいえ

「別れたほうがいい」

そんな普通の恋人同士のような台詞を、よくもまあ我ながら、恥ずかしげもなく言えたものだ
気を抜けばどんどん染み出してしまいそうな、弱さや欲情を抑えるのだけで精一杯だった自分は
普通の恋人同士であれば、当然持ち得たであろう特別な時間を
彼女からもらうばかりで、捧げることなど一度もできていなかったというのに

そして案の定、最後の最後でどうしようもなく傷つけた
常に自分を慈しんでくれる彼女のとなりに在り続けながらも、結局は
そんな方法しか見つけることができなかった





そろそろ、目を醒ましたころだろうか
そしてやはり、泣くのだろうか

泣き虫の彼女の涙を目にする機会は、善くも悪くも割と多かった
けれどあんなふうに、体全部で泣くかのような姿を目の当たりにしたことはなかった

触れる資格などもうないのだと思いながらも、せずにはいられなかった、去り際の口づけ
実行に移したことは数える程度しかないけれど、いつも自分を甘く酔わせた筈のそれは
とても苦くて、何かが突き刺さるように胸が痛んだ





いっそ、憎んでくれればいいのだけれど
彼女のことだから、人を憎むことなど決してできないだろう
それに、いつまでも自分などに捉われ続けて欲しくはない
そんな生き方は、彼女には相応しくないし、似合わない

だから、何もかも忘れてしまってほしい
他の何を失ったとしても、彼女の記憶を消す力だけは残っていてくれればよかったのに
結局はなにも掴めなかった手を見つめながら、ため息を落とす
こんなにも、自分は無力だ





逃げる自分を、許す必要などない
だからどうか願わくば、いつまでも彼女のことを明るく照らしてくれますよう
見上げた空に、変わらず浮かぶ六日月。眩しいほどのその輝きに
ひとつだけ、できることなら他の誰にも譲りたくなかった願いを込めた





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